操作

「とみえたり」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
(同じ利用者による、間の3版が非表示)
1行目: 1行目:
  
蓮如さんが「一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずと{{DotUL|みえたり}}」と「みえたり」とされておられるのは、存覚師の『浄士見聞集』の文を承けられたものといわれる。([[御文二#P--1127|御文章 P.1127]])
+
蓮如さんが「一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずと{{DotUL|みえたり}}」と「みえたり」とされておられるのは、存覚師の『浄土見聞集』の文を承けられたものといわれる。([[御文二#P--1127|御文章 P.1127]])
  
以下に『浄士見聞集』の該当部分を抜き出した。
+
以下に『浄土見聞集』の該当部分を抜き出した。
:もしききえてよろこぶこころあらばこれ'''宿善'''のひとなり。'''善知識'''にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち[[摂取の心光]] 行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
+
:もしききえてよろこぶこころあらばこれ'''宿善'''のひとなり。'''善知識'''にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふこころのなきはこれすなはち[[摂取の心光]] 行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
:'''光明'''は智慧なり。この[[光明智相]]より信心を開発したまふゆへに'''信心'''は仏智なり。仏智よりすすめられたてまつりて くちに'''名号'''はとなへらるるなり。(真聖全、列祖部三七八頁) → [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821195/8 国会図書館デジタルコレクション]
+
:'''光明'''は智慧なり。この[[光明智相]]より信心を開発したまふゆへに'''信心'''は仏智なり。仏智よりすすめられたてまつりて くちに'''名号'''はとなへらるるなり。→([[浄土見聞集#P--378|真聖全、列祖部三七八頁]]) → [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/821195/8 国会図書館デジタルコレクション]
 
とあるように、宿善・善知識・光明・信心・名号と順番まで等しく出されている。 この五重は、成就文の「聞其名号信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」を開いたものといわれる。<br>
 
とあるように、宿善・善知識・光明・信心・名号と順番まで等しく出されている。 この五重は、成就文の「聞其名号信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」を開いたものといわれる。<br>
 
ただ、成就文では名号、信心の次第であるのだが、「名号」を信心の後に出されているのは、蓮如さんは信心の「体」を、
 
ただ、成就文では名号、信心の次第であるのだが、「名号」を信心の後に出されているのは、蓮如さんは信心の「体」を、
12行目: 12行目:
 
があるからであるとする。五重義相では信の後であるから称名(なまんだぶ)を意味し、これによって信心正因称名報恩の義を明らかにされているのであろう。
 
があるからであるとする。五重義相では信の後であるから称名(なまんだぶ)を意味し、これによって信心正因称名報恩の義を明らかにされているのであろう。
  
→[[安心論題/五重義相]]
+
:→[[五重の義]]
 +
:→[[安心論題/五重義相]]
  
 
[[Category:追記]]
 
[[Category:追記]]

2020年1月18日 (土) 16:34時点における最新版

蓮如さんが「一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり」と「みえたり」とされておられるのは、存覚師の『浄土見聞集』の文を承けられたものといわれる。(御文章 P.1127)

以下に『浄土見聞集』の該当部分を抜き出した。

もしききえてよろこぶこころあらばこれ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふこころのなきはこれすなはち摂取の心光 行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまつりて くちに名号はとなへらるるなり。→(真聖全、列祖部三七八頁) → 国会図書館デジタルコレクション

とあるように、宿善・善知識・光明・信心・名号と順番まで等しく出されている。 この五重は、成就文の「聞其名号信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」を開いたものといわれる。
ただ、成就文では名号、信心の次第であるのだが、「名号」を信心の後に出されているのは、蓮如さんは信心の「体」を、

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。(御文章 P.1131))

として名号を出される場合と、信後の称名を名号といわれる場合の、

かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。(御文章 P.1138)

があるからであるとする。五重義相では信の後であるから称名(なまんだぶ)を意味し、これによって信心正因称名報恩の義を明らかにされているのであろう。

五重の義
安心論題/五重義相