「慮知」の版間の差分
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+ | ここでは[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1911_.46.0004a18.html 『摩訶止観』]を引いて、[[菩提心]]とは思慮分別する心であるとし、外境を[[縁ずる]]心、外界に働く心である凡夫の起こし得る[[菩提心]]であり、それは[[阿弥陀仏]]のご信心に感応道交するところに「[[発起]]」する[[願作仏心]]であるとされるのであろう。 | ||
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+ | :おほよそ心に三種あり一には質多心<ref>質多心。梵語チッタ(cita)の音写。心の意。</ref>。此の方には慮知心<ref>慮知心:思慮分別する心。</ref>と稱す。二には<kana>汗栗多心(かりたしん)</kana>。此の方には稱す草木心<ref>草木心:情を持たない心。</ref>と。三には<kana>矣栗多心(いりたしん)</kana>。此の方には積聚精要心<ref>積聚精要心:諸経の要旨を積聚している心。</ref>と稱す。 | ||
+ | :このなかに菩提心をおこすこと、かならす慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音、ここには[[道]]といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心を、すなはち菩提心とするにはあらず。この慮知心をもて、菩提心をおこすなり。 | ||
+ | :菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。この心、もとよりあるにあらず。いまあらたに起するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然にあらず、凝然にあらず。わか身のなかにあるにあらず、わか身の心のなかにあるにあらず。 | ||
+ | :この心は。法界に周遍せるにあらす。前にあらす。後にあらす。あるにあらす。なきにあらす。自性にあらす。他性にあらす。共性にあらす。無因性にあらす。しかあれとも感応道交するところに。発菩提心するなり。(原文:カタカナ) | ||
+ | と、慮知心そのままが菩提心ではなく、慮知心によって菩提心を発すとされていた。そして感応道交するところに菩提心を発すとされるのだが、浄土真宗では阿弥陀如来のあらゆる衆生を「[[済度]]」する菩提心(本願)を受け容れて、その本願と感応道交する他力の菩提心が浄土の菩提心であり[[願作仏心]]であった。 | ||
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2020年1月21日 (火) 12:25時点における最新版
りょち
思慮分別する心。(信巻 P.254)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ここでは『摩訶止観』を引いて、菩提心とは思慮分別する心であるとし、外境を縁ずる心、外界に働く心である凡夫の起こし得る菩提心であり、それは阿弥陀仏のご信心に感応道交するところに「発起」する願作仏心であるとされるのであろう。
なお、道元禅師はこの『摩訶止観』の語を引いて、
- 正法眼藏發菩提心
- おほよそ心に三種あり一には質多心[1]。此の方には慮知心[2]と稱す。二には
汗栗多心 。此の方には稱す草木心[3]と。三には矣栗多心 。此の方には積聚精要心[4]と稱す。 - このなかに菩提心をおこすこと、かならす慮知心をもちゐる。菩提は天竺の音、ここには道といふ。質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心を、すなはち菩提心とするにはあらず。この慮知心をもて、菩提心をおこすなり。
- 菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。この心、もとよりあるにあらず。いまあらたに起するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然にあらず、凝然にあらず。わか身のなかにあるにあらず、わか身の心のなかにあるにあらず。
- この心は。法界に周遍せるにあらす。前にあらす。後にあらす。あるにあらす。なきにあらす。自性にあらす。他性にあらす。共性にあらす。無因性にあらす。しかあれとも感応道交するところに。発菩提心するなり。(原文:カタカナ)
と、慮知心そのままが菩提心ではなく、慮知心によって菩提心を発すとされていた。そして感応道交するところに菩提心を発すとされるのだが、浄土真宗では阿弥陀如来のあらゆる衆生を「済度」する菩提心(本願)を受け容れて、その本願と感応道交する他力の菩提心が浄土の菩提心であり願作仏心であった。