菩提心

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ぼだい-しん

 梵語ボーデイ・チッタ(bodhi-citta)の漢訳。詳しくは阿耨多羅三藐三菩提心といい、無上正真道意(むじょうしょうしんどうい)・無上菩提心・無上道心などと漢訳する。仏果に至りさとりの智慧を得ようとする心のこと。この心をおこすことを発菩提心といい、仏道の出発点とされる。
親鸞聖人は「信巻」等において、菩提心について自力他力を分判し、如来回向(えこう)の信心は願作仏心(がんさぶっしん)(自利)、度衆生心(どしゅじょうしん)(利他)の徳をもつ他力の大菩提心であるとあらわされた。


 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)
 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社)
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『教行証文類』信巻に、

金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。 (信巻 P.252)

とある。

インクルード

明恵高弁は『選択本願念仏集』を読んで、「菩提心を撥去する過失」として法然聖人を罵詈雑言する根拠の一つが『摧邪輪』で、

 次に称名を以て正行とし、所助とし、菩提心を以て助行とし、能助とすること、さらにその謂なし。もし好んで正助・能所を作らば、汝が言を翻して曰ふべし。謂く、菩提心は、是れ正行なり、所助なり、称名は、是れ助行なり、能助なり。謂く、往生の業は、菩提心を以て本とするが故に、一向に菩提心を熟せしめんがために、家を捨て欲を棄てて沙門と作り、専ら仏名を称するなり。謂く、菩提心は、是れ諸善の根本、万行の尊首なり。
この故に顕密諸経論に、皆菩提心を嘆じて仏道の種子とす。その証拠、雲霞のごとし、毛挙に遑あらず。大日経に云く、「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」等と云云。(*)

とあるように『大日経』の「菩提心をとし、大悲をとし、方便を究竟とす」の文であった。明恵は、仏道の根基は菩提心であり、これを廃捨し専修念仏だけを勧進する法然は畜生である、悪魔であるとまで罵倒するのであった。
もっとも、法然聖人は

「菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり」(三部経大意

と、浄土門では、浄土へ生まれようと願うことを菩提心というのであるとされておられた。

御開山と明恵は同い年であったが、この明恵の論難に対して、法然聖人が廃捨されたのは自力の菩提心であるとして、

しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。(信巻 P.246)

と、横超の他力の菩提心を顕されたのが「信巻」で展開される菩提心釈であった。
いわゆる『論註』の「願作仏心」「度衆生心」の菩提心であり、真実の菩提心は仏のさとりを得て後に展開される菩提心であるとされたのであろう。明恵は、自らが菩提心を起こせないことを述懐しているように、真実の菩提心を発すことは、この世に於いては不可能なのであった。『歎異抄』にあるように、

慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々] (歎異抄 P.833)

の、「念仏して、いそぎ仏に成りて」の横超の菩提心であった。
なお、源信僧都は『往生要集』の作願門で、天台大師智顗の撰とされる(『淨土十疑論』)を引いて、

知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。(要集 P.930)

と、業因・華報・果報・本懐を示し、衆生を利益することを往生浄土の本懐であるとされていた。「願作仏心」「度衆生心」の他力の菩提心釈の淵源であった。

願作仏心
度衆生心

外部リンク
 →明恵