「ふかく信じて」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
2行目: | 2行目: | ||
深く信じてを、信心あさくと対判され「深とは利他真実の心これなり」の意とされておられたのであろう。([[消息下#P--785|消息 P.785]])<br /> | 深く信じてを、信心あさくと対判され「深とは利他真実の心これなり」の意とされておられたのであろう。([[消息下#P--785|消息 P.785]])<br /> | ||
− | + | 「化巻」の三経通顕で三経の信の真仮を分判し、 | |
{{Inyou| | {{Inyou| | ||
:ここをもつて『大経』には「[[信楽]]」とのたまへり、如来の[[誓願]]、[[疑蓋]]雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。 | :ここをもつて『大経』には「[[信楽]]」とのたまへり、如来の[[誓願]]、[[疑蓋]]雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。 | ||
:『観経』には「深心」と説けり、諸機の浅信に対せるがゆゑに深とのたまへるなり。『小本』(小経)には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。'''深'''とは利他真実の心これなり、'''浅'''とは定散自利の心これなり。 ([[化巻本#P--393|化巻 P.393]]) | :『観経』には「深心」と説けり、諸機の浅信に対せるがゆゑに深とのたまへるなり。『小本』(小経)には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。'''深'''とは利他真実の心これなり、'''浅'''とは定散自利の心これなり。 ([[化巻本#P--393|化巻 P.393]]) | ||
}} | }} | ||
− | + | と、『大経』では[[信楽]]、『観経』では[[深心]](深信)、『小経』(阿弥陀経)では[[一心]]とされ、それは「[[利他真実]]の心」であるから「深」とされたのである。「行巻」では教法について47対をあげた中に「深浅対(念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。)」([[行巻#P--199|行巻 P.199]])とある。 | |
+ | :→[[深心]] | ||
:→[[トーク:疑蓋]] | :→[[トーク:疑蓋]] | ||
[[Category:追記]] <p id="page-top">[[#|▲]]</p> | [[Category:追記]] <p id="page-top">[[#|▲]]</p> |
2020年7月26日 (日) 18:13時点における版
ふかくしんじて
深く信じてを、信心あさくと対判され「深とは利他真実の心これなり」の意とされておられたのであろう。(消息 P.785)
「化巻」の三経通顕で三経の信の真仮を分判し、
と、『大経』では信楽、『観経』では深心(深信)、『小経』(阿弥陀経)では一心とされ、それは「利他真実の心」であるから「深」とされたのである。「行巻」では教法について47対をあげた中に「深浅対(念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。)」(行巻 P.199)とある。