「おうじょうようしゅう」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
細 |
|||
18行目: | 18行目: | ||
{{Copyright}} | {{Copyright}} | ||
---- | ---- | ||
+ | {{Tinc|JDS:往生要集}} | ||
+ | |||
+ | |||
[[Category:巻末註]] | [[Category:巻末註]] |
2021年8月26日 (木) 04:17時点における最新版
往生要集
三巻。源信(げんしん)和尚(かしょう)(942-1017)の著。寛和元年(985)成立という。
- ①厭離(えんり)穢土(えど)、
- ②欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)、
- ③極楽証拠、
- ④正修念仏、
- ⑤助念方法、
- ⑥別時念仏、
- ⑦念仏利益(りやく)、
- ⑧念仏証拠、
- ⑨往生諸業、
- ⑩問答料簡(もんどうりょうけん)
の十大門に分けて論じたもの。厭離穢土・欣求浄土の思想は当時の社会に大きな感化を及ぼした。七祖聖教(しちそしょうぎょう)の一。宋にも送られて高く評価されたという。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:往生要集
おうじょうようしゅう/往生要集
三巻。『往生集』ともいう。源信撰。寛和元年(九八五)四月成立。比叡山横川首楞厳院に隠遁していた源信が、百六十余部の仏教経典、論疏から九五二文に及ぶ要文を集め、極楽浄土に往生するためには、念仏の実践が最も重要であることを示した書で、これにより浄土教の基礎が確立された。平安時代を代表する仏教書。永観二年(九八四)一一月から書き始め、わずか半年で書き終えたとされる。
[構成]
①厭離穢土②欣求浄土③極楽証拠④正修念仏⑤助念方法⑥別時念仏⑦念仏利益⑧念仏証拠⑨往生諸行⑩問答料簡の一〇門(大文)から成る。その序文には、「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、あに敢てせんや」(浄全一五・三七上)とし、このために経論の要文を集めるのだとする撰述の目的が示されている。また、その冒頭には、壮絶なまでの地獄の様相が綴られ、その直後に、それとは対照的に仏の救いの尊さや恵みの有難さを思い知る浄土の十楽を説くことで、浄土への救いを求めさせるべく極めて効果的に「厭離穢土」「欣求浄土」の二門が配置されている。
[思想の特徴]
大文第四、五、六門には、浄土に往生するための念仏の正しい在り方が、世親の五念門を引用して説かれているが、その中心は、観察に置かれている。そして、その基礎として要求されている条件は作願である。源信が説く念仏の中心をなす、この観察門では、「別相観」「総相観」「雑略観」に分け展開している。まず「別相観」では、仏が坐っている華座からはじまって、仏の相好に移り、仏の肉髻から、足の裏に及ぶ四十二相を観想する手順が説かれている。そして「総相観」には、一切の功徳を収めつくした阿弥陀仏とわたくしが全く一つに融合することによって、初めて観想が完成するという、いわゆる三身即一の仏を観想する、「理」の観想が説かれている。しかしながら、このような観想は極めて高度な能力や資質と、弛まぬ精進努力を必要とすることから、より簡単な観想方法として、仏の白毫と光明に絞った「雑略観」が説かれている。そして、それさえ能力に余る愚かな者の観想として、帰命・引摂・往生の想を想い称念する、もはや観想とは言い難い念仏が提示されている。ここに、一定の恵まれた条件が備わっていなければ勤めることができなかった観想念仏を離れ、一心称念を観想の中に組み込むことで、一般庶民をも仏の救済に適う対象として含めた点は大きな特徴である。また、この念仏は諸行と比較して易行であり、しかも功徳の勝れた行とし、念仏に易行性と勝行性を見出したことは浄土教思想史上意義がある。さらには大文第六において、念仏を平生と臨終に分け、その臨終では、音楽性や法要儀礼的な要素を払拭し、今まさに往生の可否がここに懸かっているという、ぎりぎりの瞬間に直面した際の念仏が説かれ、その後迎講なる臨終来迎を擬した法会が説かれている点も注目される。また、念仏を最勝の行とはするものの、他の諸行を否定せず、念仏と諸行を並行して実践するという立場も明示している。
[本書の影響]
本書の念仏理論を実践しようとして、寛和二年(九八六)五月に横川の僧二五名を根本結衆として念仏結社二十五三昧会が発足した。さらには本書で展開された浄土教思想は、後の永観・法然・親鸞などの思想形成に大きな影響を与えた。法然はこの書を披覧してその教えに傾倒し、四部の注釈書を著すなかで善導の思想に出会い深く感銘し、偏に善導の教えを拠り所とする偏依善導の確信を得た書として位置付けている。さらには、本書は僧俗に広く読まれ、その影響は仏教界に留まらず、『栄花物語』『枕草子』『中右記』など平安文学にも及ぶ。なかでも『源氏物語』には源信をモデルとした僧侶の登場する場面も見られる。さらに美術の分野でも聖衆来迎図や来迎相の仏像および地獄変相図や六道図なども本書の影響下において生じたものであり、日本人の心に地獄・極楽の観念が定着したのは『往生要集』によるといえる。
[留和本・遣宋本]
『往生要集』には、寛和元年に源信が初めて書き上げた初稿本と、後に再校正し宋に送った再治本が存在し、これらを留和本と遣宋本と称している。永延二年(九八八)源信は来航していた宋の商人朱仁聡と同船の僧斉隠に博多で会い、『往生要集』を託したとされる。この遣宋本、承安元年(一一七一)の古写完本が京都市青蓮院吉水蔵に現存している。
[写本と刊本]
本書の最古の写本は源信在世中の長徳二年(九九六)の写本が中巻のみ、小松市聖徳寺上宮文庫に現存する。また、刊本の種類は多く、『浄全』所収本は天保本を基本に寛永・元禄本の丁数を記入し、本文と訓点とに多少の修正を加えながら寛永・元禄本の旧体にかえしたものである。
【所収】浄全一五、正蔵八四、『恵心僧都全集』一、『日本思想大系六・源信』
【資料】『往生要集略料簡』、『往生要集料簡』、『往生要集釈』、『往生要集詮要』、『往生要集義記』、花山信勝『原本校註漢和対照「往生要集」』(山喜房仏書林、一九七六)
【参考】福原蓮月『往生要集の研究』(永田文昌堂、一九八五)、往生要集研究会編『往生要集研究』(同、一九八七)
【執筆者:和田典善】