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「無為」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:「涅槃をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ」(註 709)とある。→[[有為]](浄土真宗辞典)
 
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無為とは元来は老荘の「自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと」の意であった。これを仏教の、因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実をあらわす語として援用した。<br />
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仏教の論議では<kana>三無為(さんむい)</kana>を説くことが多いので以下にWikiDharmの「無為」をインクルードした。<br />
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2022年12月31日 (土) 00:06時点における版

むい

 梵語アサンスクリタ(asaṃskṛta)の漢訳。有為(うい)に対する語。種種の原因や条件(因縁)によって生成されたものではない存在。すなわち生滅変化を超えた常住不変の真実のこと。涅槃(ねはん)の異名。→有為(うい)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

むい 無為

 梵語アサンスクリタ (asaṃskṛta) の意訳。有為に対する語。さまざまな因縁 (原因と条件) によってつくられたものではない存在。すなわち消滅変化を超えた常住不変の真実のこと。涅槃の異名ともされる。『唯信鈔文意』には

「涅槃をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ」(註 709)とある。→有為(浄土真宗辞典)

無為とは元来は老荘の「自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと」の意であった。これを仏教の、因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実をあらわす語として援用した。
仏教の論議では三無為(さんむい)を説くことが多いので以下にWikiDharmの「無為」をインクルードした。

◆ 参照読み込み (transclusion) WDM:むい

無畏

四無畏

おそれのないこと。ゆるぎない自信。
菩薩の能力として、説法における4つの自信を「四無畏」(しむい、catvaari-vaizaaradyaani)と言った。

問うて曰わく、何等を無所畏と名づくるや。答えて曰わく、疑う所なきを得て、忌難する所なし。智慧は却かず、没せず、衣毛は竪たず。法の中に在って説くが如し。即ち是れ無畏と作す    〔大智度論巻25 T25-242b〕

無畏施

衆生を危険から救い、安全な状態にすること。

汝、無畏を求めれば、我がを出ずることなかれ   《十住心論

無畏

中論》の注釈者。


無為

asaṃskṛta असँस्कृत(S)、「造られたものでないもの」の意味。

 基本的には、中国の老荘思想からの援用であろうと考えられる。これは「人間の作為ではなく、自然のまま」という意味である。

 仏教では、縁起によって作り出されたものではない、不生不滅の存在をいう。たとえば、涅槃輪廻を超克したものであるから、「無為」と呼ばれる。

 「造られたものでないもの」の意味である。為作・造作を有しないもの。すなわち、因縁和合によって生滅する諸法を有為と称するのに対して、為作・造作を離れ、常住にして不生不滅なるものを無為という。原始仏教においては、最高の理想である涅槃を指して、生滅なき点よりして「無為」と名づけた。部派仏教においては、不変化の点からして有為法と対立するもの、あるいは有為法の根底をなすものとしての無為法が考えられて後世の大乗・唯識仏教へとよりくわしく考察されていった。

 為作・造作を有しないもの。すなわち、因縁和合によって生滅する諸法有為と称するのに対して、為作・造作を離れ、常住にして不生不滅なるものを無為という。原始仏教においては、最高の理想である涅槃を指して、生滅なき点によって「無為」と名づけた。

 部派仏教においては、不変化の点からして有為法と対立するもの、あるいは有為法の根底をなすものとしての無為法が考えられて後世の大乗・唯識仏教へとよりくわしく考察されていった。
 仏教諸派により三無為・六無為・九無為などが立てられる。

三無為

 部派仏教中の説一切有部によって主張される。

  1. 択滅無為(pratisaṃkhyā-nirodha-asaṃskṛta)
     簡択力によって得られた滅。簡択とは四諦の理をさとる智慧。この智慧によって煩悩から解脱したところに顕れる空寂の真理。涅槃のこと。すなわち汚れなき智慧の力により煩悩を断ずるところに現われる無為をいう。択滅の数は煩悩の数とひとしいとされる。
  2. 非択滅無為(apratisaṃkhyā-nirodha-asaṃskṛta)
     簡択力によって得られる滅でない空寂なるもの。因と縁とを欠いて現象として生じないもの。たとえばある一つの物(色)を眼(眼識)で見るとき、他の物を見る・聞く・嗅ぐ・触るという感覚(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識)は生じないままであることをいう。これを「縁闕不生の非択滅」という。唯識では、真如のありよう.顕れ方に応じて次の6つの無為を立てる。択力によらず、縁欠不生によって、生ずべきが未来にとどまり生じないところに名づける。
  3. 虚空無為(ākāśa-asaṃskṛta)
     いかなるさまたげ(障礙)もない広大無辺な空間。そのなかで、もの(色)がさまたげられることなく、自由に動きまわり、増大・収縮することができる空間。虚空は実体として存在する(実有)。無礙、すなわち諸法が存在するうえにおいて障害の無いことをいい、いわば絶対空間ともいうべきものを指す。単なる隙間の空間としての虚空とは異なる〔『倶舎論』1〕。

 他の部派仏教では大衆部一説部などが九無為説を主張する。

六無為

 大乗仏教の唯識派によって主張される。唯識派による無為は識変法性とにより仮立される。六種の無為を説くけれども法性所顕の縁によりて説くのであって別体はない。

  1. 虚空無為   法性すなわち真如が障害を離れたところに現われる無為である。
  2. 択滅無為   法性の択力で汚れを滅したところに現われる無為
  3. 非択滅無為  法性の択力によらず本性清浄あるいは縁欠不生により現われる無為
  4. 不動無為   第四静慮に入り、苦楽受の滅を得したところに名づける無為
  5. 想受滅無為  非想地の滅受想定に入り、想受の滅を得したところに名づける無為
  6. 真如無為   法性が真実如常の相を有するによって名づける

 前の五無為はいずれもこの真如無為によって仮立されたものであり、真如無為も仮名であるが、その体は実有であるとされる。
 有為と無為とは説一切有部ではまったく関係なく、また唯識仏教においては、「有為無為永別」として、有為の諸法は真如たる無為法から縁起してくるものではないとされ、有為と無為とは能依所依の関係である。これは性相を決判し、「真如凝然不作諸法」と建てる法相教学からきたものである。
 これに対し『大乗起信論』など如来蔵思想の系統では「真如随縁作諸法」といい、有為と無為の交渉を主張する。

中国思想における無為

「何もしない」「人為を加えない」の意である。

 無為にして治まるは其れ舜なるか    〔『論語』衛霊公篇〕

として、人為を用いずに治めるのを政治の理想とする。

 聖人は無為之事に処り不言之教を行う    〔『老子』天地皆知章〕

として無為を尊ぶべきことを主張している。

参照WEB版浄土宗大辞典の「有為・無為」の項目