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「真如」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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 梵語タタター(tathatā)の漢訳。かくあること。衆生の<ruby><rb>虚妄分別</rb><rp>(</rp><rt>こもうふんべつ</rt><rp>)</rp></ruby>を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。 ([[帰三宝偈#P--1451|帰三宝偈 P.1451]])
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 梵語タタター(tathatā)の漢訳。かくあること。衆生の<ruby><rb>虚妄分別</rb><rp>(</rp><rt>こもうふんべつ</rt><rp>)</rp></ruby>を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。 ([[帰三宝偈#P--1451|帰三宝偈 P.1451]]) →[[一如]],→[[法性]]
  
 
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 梵語タタター (tathatā) の意訳。かくあること。衆生の[[虚妄分別]]を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。真如法性・真如実相などともいい、[[法性]]、 [[実相]]、 [[一如]]などの異名としても用いられる。(浄土真宗辞典)}}
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2023年3月24日 (金) 00:25時点における最新版

しんにょ

 梵語タタター(tathatā)の漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別(こもうふんべつ)を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。 (帰三宝偈 P.1451) →一如,→法性

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

しんにょ 真如

 梵語タタター (tathatā) の意訳。かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありのままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すべての存在の本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。真如法性・真如実相などともいい、法性実相一如などの異名としても用いられる。(浄土真宗辞典)


169,202,307,318,482,507,568,690,709,951,976,1399

参照WEB版浄土宗大辞典の「真如」の項目