「四不十四非」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | 四つの不と十四の非によって、信心の徳を<kana>讃(たた)</kana>えて、さまざまな自力のはからいをことごとく否定し、[[虚妄分別]]を超越した{{DotUL|仏智であるような[[信心]]}}の領域を讃嘆し、[[機]]のはからいを否定する。 | ||
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他力信心の徳を四つの「不」と十四の「非」によって讃嘆したもの。「信巻」([[信巻本#no51|註 245]])にある。四つの不とは、①不簡貴賎緇素(出家・在家の違いをわけないこと)、②不謂男女老少(老若男女の別によってわけないこと)、③不問造罪多少(犯した罪の多い少ないを問わないこと)、④不論修行久近(修行期間の長い短いを問わないこと)の四。<br /> | 他力信心の徳を四つの「不」と十四の「非」によって讃嘆したもの。「信巻」([[信巻本#no51|註 245]])にある。四つの不とは、①不簡貴賎緇素(出家・在家の違いをわけないこと)、②不謂男女老少(老若男女の別によってわけないこと)、③不問造罪多少(犯した罪の多い少ないを問わないこと)、④不論修行久近(修行期間の長い短いを問わないこと)の四。<br /> | ||
十四の非とは、①②非行非善(自ら行う行や善でないこと)、③④非頓非漸(速やかにさとろうとしたり、長い時を費やしてさとろうとしたりする教えでないこと)、⑤⑥非定非散(定善や散善でないこと)、⑦⑧非正観非邪観(正しい観法やよこしまな観法でないこと)、⑨⑩非有念非無念(相を念じたり、相を離れて理を念じたりしないこと)、⑪⑫非尋常非臨終(平生に限ったり、臨終に限ったりしないこと)、⑬⑭非多念非一念(称名を多念に励んだり、一念に限ったりしないこと)の十四。四不は機の面から論じ、十四非は法の面から論じている。(浄土真宗辞典) | 十四の非とは、①②非行非善(自ら行う行や善でないこと)、③④非頓非漸(速やかにさとろうとしたり、長い時を費やしてさとろうとしたりする教えでないこと)、⑤⑥非定非散(定善や散善でないこと)、⑦⑧非正観非邪観(正しい観法やよこしまな観法でないこと)、⑨⑩非有念非無念(相を念じたり、相を離れて理を念じたりしないこと)、⑪⑫非尋常非臨終(平生に限ったり、臨終に限ったりしないこと)、⑬⑭非多念非一念(称名を多念に励んだり、一念に限ったりしないこと)の十四。四不は機の面から論じ、十四非は法の面から論じている。(浄土真宗辞典) | ||
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凡按大信海者、不簡貴賤緇素、不謂男女老少、不問造罪多少、不論修行久近、非行非善、非頓非漸、非定非散、非正観 非邪観、非有念 非無念。非尋常 非臨終、非多念 非一念、唯是 不可思議不可称不可説 信楽也。 | 凡按大信海者、不簡貴賤緇素、不謂男女老少、不問造罪多少、不論修行久近、非行非善、非頓非漸、非定非散、非正観 非邪観、非有念 非無念。非尋常 非臨終、非多念 非一念、唯是 不可思議不可称不可説 信楽也。 | ||
喩如阿伽陀薬 能滅一切毒。 | 喩如阿伽陀薬 能滅一切毒。 | ||
如来誓願薬 能滅智愚毒也。 | 如来誓願薬 能滅智愚毒也。 | ||
− | : おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。 | + | : おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。([[信巻本#no51|信巻 P.245]]) |
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+ | : おおよそこの海のような広大な徳を持っている偉大な信心について味わってみると、身分の違いや出家・在家の違いを分け隔てせず、男女とか老少を区別せず、犯した罪の多少を問題にせず、修行期間の長短を問題にせず救いをもたらします。<br /> | ||
+ | :それは自分が行う行でも善でもなく、自分で速くさとれるか、遅くしかさとれないかを問題にする教えでもありません。心を静めて行う[[定善]]でも、[[散心]]のままで行う[[散善]]でもありません。正しい観想でも<kana>邪(よこしま)</kana>な観想でもありません。仏の姿形を思い浮かべる[[有念]]でもなく、姿形を超えた[[無相]]を念ずる[[無念]]でもありません。 | ||
+ | :[[尋常]]にかぎるのでも[[臨終]]にかぎるものでもありません。多念往生にかぎるのでも一念往生にかぎるのでもありません。それは、人間の一切のはからい超越した、思いはかることもできず、称讃し尽くすこともできず、説き尽くすこともできない信楽なのです。たとえば、[[阿伽陀薬]]が一切の毒を滅していくように、阿弥陀仏の誓願の薬は、人間が持っている智慧の毒も、愚痴の毒も、すべて消滅していくはたらきを持っています。 | ||
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2023年6月14日 (水) 21:33時点における最新版
しふ-じゅうしひ 四不十四非
四つの不と十四の非によって、信心の徳を
しふ-じゅうしひ 四不十四非
他力信心の徳を四つの「不」と十四の「非」によって讃嘆したもの。「信巻」(註 245)にある。四つの不とは、①不簡貴賎緇素(出家・在家の違いをわけないこと)、②不謂男女老少(老若男女の別によってわけないこと)、③不問造罪多少(犯した罪の多い少ないを問わないこと)、④不論修行久近(修行期間の長い短いを問わないこと)の四。
十四の非とは、①②非行非善(自ら行う行や善でないこと)、③④非頓非漸(速やかにさとろうとしたり、長い時を費やしてさとろうとしたりする教えでないこと)、⑤⑥非定非散(定善や散善でないこと)、⑦⑧非正観非邪観(正しい観法やよこしまな観法でないこと)、⑨⑩非有念非無念(相を念じたり、相を離れて理を念じたりしないこと)、⑪⑫非尋常非臨終(平生に限ったり、臨終に限ったりしないこと)、⑬⑭非多念非一念(称名を多念に励んだり、一念に限ったりしないこと)の十四。四不は機の面から論じ、十四非は法の面から論じている。(浄土真宗辞典)
四不十四非
凡按大信海者、不簡貴賤緇素、不謂男女老少、不問造罪多少、不論修行久近、非行非善、非頓非漸、非定非散、非正観 非邪観、非有念 非無念。非尋常 非臨終、非多念 非一念、唯是 不可思議不可称不可説 信楽也。 喩如阿伽陀薬 能滅一切毒。 如来誓願薬 能滅智愚毒也。
- おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。(信巻 P.245)
- 現代語
- おおよそこの海のような広大な徳を持っている偉大な信心について味わってみると、身分の違いや出家・在家の違いを分け隔てせず、男女とか老少を区別せず、犯した罪の多少を問題にせず、修行期間の長短を問題にせず救いをもたらします。
- それは自分が行う行でも善でもなく、自分で速くさとれるか、遅くしかさとれないかを問題にする教えでもありません。心を静めて行う定善でも、散心のままで行う散善でもありません。正しい観想でも
邪 な観想でもありません。仏の姿形を思い浮かべる有念でもなく、姿形を超えた無相を念ずる無念でもありません。 - 尋常にかぎるのでも臨終にかぎるものでもありません。多念往生にかぎるのでも一念往生にかぎるのでもありません。それは、人間の一切のはからい超越した、思いはかることもできず、称讃し尽くすこともできず、説き尽くすこともできない信楽なのです。たとえば、阿伽陀薬が一切の毒を滅していくように、阿弥陀仏の誓願の薬は、人間が持っている智慧の毒も、愚痴の毒も、すべて消滅していくはたらきを持っています。