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りょうげん
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りょうげん(1595-1336)
  
 (1595-1336)仏光寺第七代。六波羅の南方探題、越後守北条継貞の家人比留左衛門太郎維広の<kana>中間(ちゅうげん)</kana>で、弥三郎と称する武士であったという。関東で<kana>阿佐布(あざぶ)</kana>門徒の<kana>甘縄了円(あまなわりょうえん)</kana>(<kana>明光(みょうこう)</kana>)に教えを受け、のち元応二年(1320)大谷に来て、[[覚如]]上人に法門の指導を願い出、その長子、[[存覚]]上人より指導を得た。<kana>名帳(みょうちょう)</kana>・<kana>絵系図(えけいず)</kana>などにより教化活動を展開して仏光寺教団を築いた。
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 [[仏光寺]]第七代。[[gooj:六波羅|六波羅]]の南方探題、越後守北条継貞の家人比留左衛門太郎維広の<kana>中間(ちゅうげん)</kana>で、弥三郎と称する武士であったという。関東で<kana>阿佐布(あざぶ)</kana>門徒の<kana>甘縄了円(あまなわりょうえん)</kana>(<kana>明光(みょうこう)</kana>)に教えを受け、のち元応二年(1320)大谷に来て、[[覚如]]上人に法門の指導を願い出、その長子、[[存覚]]上人より指導を得た。<kana>[[名帳]](みょうちょう)</kana>・<kana>[[絵系図]](えけいず)</kana>などにより教化活動を展開して[[仏光寺]]教団を築いた。
  
 
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2023年12月19日 (火) 21:01時点における最新版

りょうげん(1595-1336)

 仏光寺第七代。六波羅の南方探題、越後守北条継貞の家人比留左衛門太郎維広の中間(ちゅうげん)で、弥三郎と称する武士であったという。関東で阿佐布(あざぶ)門徒の甘縄了円(あまなわりょうえん)明光(みょうこう))に教えを受け、のち元応二年(1320)大谷に来て、覚如上人に法門の指導を願い出、その長子、存覚上人より指導を得た。名帳(みょうちょう)絵系図(えけいず)などにより教化活動を展開して仏光寺教団を築いた。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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