「格義」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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異なる国の異質の文化を受容する場合、自国の文化のもつ思想の義を格(きまり、ようす、規格)に合わせて比較し理解することを格義という。インドからシナへ伝来した新しい思想の仏教の経典を、シナ古来の固有の思想、とりわけ老荘思想の用語を用いて解釈しようとしたことを格義仏教という。「格義」とは「義(教え)を格(あ)てる」という意味である。<br /> | 異なる国の異質の文化を受容する場合、自国の文化のもつ思想の義を格(きまり、ようす、規格)に合わせて比較し理解することを格義という。インドからシナへ伝来した新しい思想の仏教の経典を、シナ古来の固有の思想、とりわけ老荘思想の用語を用いて解釈しようとしたことを格義仏教という。「格義」とは「義(教え)を格(あ)てる」という意味である。<br /> | ||
後に、シナ仏教僧の[[JWP:釈道安|釈道安]]は、格義仏教ではなく仏教本来の思想を正しく理解するには仏教本来の解釈によらなければならないと主張した。時を同じくしてシナに来訪した[[鳩摩羅什]]による新たな大量の訳経と相まって、格義仏教は一転して影をひそめることとなった。『浄土論註』に唯一固有名詞であらわされる[[肇公]](僧肇)は鳩摩羅什の弟子であり、シナで初めて「空」の論理を体得したとされるが、「荘子」などの思想にも深い考察をもっていた。<br /> | 後に、シナ仏教僧の[[JWP:釈道安|釈道安]]は、格義仏教ではなく仏教本来の思想を正しく理解するには仏教本来の解釈によらなければならないと主張した。時を同じくしてシナに来訪した[[鳩摩羅什]]による新たな大量の訳経と相まって、格義仏教は一転して影をひそめることとなった。『浄土論註』に唯一固有名詞であらわされる[[肇公]](僧肇)は鳩摩羅什の弟子であり、シナで初めて「空」の論理を体得したとされるが、「荘子」などの思想にも深い考察をもっていた。<br /> | ||
− | + | 浄土経典、特に魏訳の『無量寿経』は格義時代に翻訳されたので、[[自然]]という語が多出するのだが、荘子の自然という概念に由来するのであった。唐約の『無量寿如来会』では著しく減少する。この自然という概念を「空」を超越した「妙有」<ref>真空妙有 しんくう-みょうう 真空がそのまま妙有であること。有(存在)にもとらわれず空にもとらわれず、空もまた空であり、否定に否定を重ねたところで見出される〈真空〉は、決して虚無ではなく、かえってあらゆるものを成り立たしめる〈妙有〉であることをいう。</ref>の浄土として展開されたのが御開山だったのである。浄土真宗という法義は、有と無を離れたところに展開する、往生浄土の真宗であった。 | |
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2024年8月18日 (日) 17:32時点における最新版
かくぎ 格義仏教
かくぎ
外教にその意味をあてて解釈すること。即ち、中国の魏晋時代に老荘思想がさかんに行われていたので、仏教の般若の空理を説明するのに両者を比較し類推し説明した。その便宜的解釈法をいう。過渡的の学風であるから、仏学を専攻することを力説した前秦の道安の頃から次第に排斥されるに至った。(仏教学辞典)
異なる国の異質の文化を受容する場合、自国の文化のもつ思想の義を格(きまり、ようす、規格)に合わせて比較し理解することを格義という。インドからシナへ伝来した新しい思想の仏教の経典を、シナ古来の固有の思想、とりわけ老荘思想の用語を用いて解釈しようとしたことを格義仏教という。「格義」とは「義(教え)を格(あ)てる」という意味である。
後に、シナ仏教僧の釈道安は、格義仏教ではなく仏教本来の思想を正しく理解するには仏教本来の解釈によらなければならないと主張した。時を同じくしてシナに来訪した鳩摩羅什による新たな大量の訳経と相まって、格義仏教は一転して影をひそめることとなった。『浄土論註』に唯一固有名詞であらわされる肇公(僧肇)は鳩摩羅什の弟子であり、シナで初めて「空」の論理を体得したとされるが、「荘子」などの思想にも深い考察をもっていた。
浄土経典、特に魏訳の『無量寿経』は格義時代に翻訳されたので、自然という語が多出するのだが、荘子の自然という概念に由来するのであった。唐約の『無量寿如来会』では著しく減少する。この自然という概念を「空」を超越した「妙有」[1]の浄土として展開されたのが御開山だったのである。浄土真宗という法義は、有と無を離れたところに展開する、往生浄土の真宗であった。
- ↑ 真空妙有 しんくう-みょうう 真空がそのまま妙有であること。有(存在)にもとらわれず空にもとらわれず、空もまた空であり、否定に否定を重ねたところで見出される〈真空〉は、決して虚無ではなく、かえってあらゆるものを成り立たしめる〈妙有〉であることをいう。