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自然

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

じねん

 人為的なものに対して、人為をからず、自ずからそうなっていること。この場合は「(おの)ずから(しか)り」と読む。
親鸞聖人は、「自ずから然らしむ」と読み、人間のはからいを超えた阿弥陀仏のはからいによる救いをあらわす語とされた。浄土教では一般的には次の三種に分類される。

  1. 業道(ごうどう)自然。善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずること。「自ずから然り」という意にあたる。『大経』「五善五悪」(五悪段)の用例の多くはこの意であるが、親鸞聖人は「自然」の語をこの意で用いることはない。
  2. 願力(がんりき)自然。「自ずから然らしむ」という他力の意。阿弥陀仏の本願力を信じ、願力にまかせる行者は、何のはからいをもなく本願力によって自ずから浄土に往生せしめられることをいう。
  3. 無為(むい)自然。さとりの世界は有無の分別をはなれ、分別による限定を超えた絶対無限の境地であることをいう。 親鸞聖人は3の場合も「自ずから然らしむ」という動的な救済活動の根源としての意味をもつものとする。 (正像 P.622) 

 顕智上人書写本ではこの前に「獲の字は因位(いんに)のときうるを獲といふ。得の字は果位のときにいたりてうることを得といふなり。名の字は因位のときのなを名といふ。号の字は果位のときのなを号といふ」とある。(正像 P.621,消息 P.768)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

自然無為という語は中国の《老子》由来の言葉である。中国思想では、世界を形成する要素、宇宙[1]に存在する万物を天・地・人として捉えるので、
「人法地、地法天、天法道、道法自然 (人は地に法〈のつと〉り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る)」(老子25)とし、人間の思索や行動なども、結局は天地自然の法に従うべきだという。老・荘では、この原理を「」といふ。このように自然という言葉は存在を示す語ではなく、人為の加わらない状態を示す言葉である。明治期に英語のネイチャーnature の翻訳語として自然の語があてられ、人の手の触れられていない地形や環境(天然)などの存在を指す語として使われるようになり、そのうえに種々の西欧思想の概念の意味が付加されて自然の語の意味が拡散されたことに留意すべきである。

仏教における自然:

じねん 自然

おのずからそうなっていること。仏教そのものの真理を表す場合と、仏教的立場からは否定されるべきものを表す場合がある。

① 仏教そのものの真理を表す場合は、さとりの世界が、有無のはからい(分別)を超えはなれてであり、真理そのもの(真如)として、それ自身独立自存し、絶対に自由であることを無為自然といい、あるいは善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずることを業道自然というように、それ自身のもつ法則にのっとって、そのままにあること(法爾)を指す。
親鸞は、自分のはからいをすてて〔阿弥陀〕如来の法則に従うことを「自然法爾」とし、〔阿弥陀仏の〕本願によって衆生が救われることの必然性(願力自然)を説いた。無量寿経には、極楽が無為自然の世界であり、そこに生まれる者は自然虚無之身を受けるとある。
② 仏教的立場から否定される自然の説は、万物が因縁によって生じていることを否定して、本来的にそうなっているとする無因論(自然外道)にいう自然である。(仏教学辞典)

〔…〕内は追記。

肇公
荘子
ノートよりインクルード

『和語灯録』諸人伝説の詞に、

又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすき物(酸きもの)あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。( 和語灯録p.683)

とある。法爾道理とは『瑜伽師地論』の四種道理の一、法爾道理(法然道理ともいう。火に熱さがあるように、あるがままのすがたで不変の本性を完成しているという道理)をいうのであろう。また法然聖人は、

「しかるに源空は、させる因縁もなくして法爾法然と道心をおこすがゆへに、師匠名をさづけて法然となづけ給ひし也」( 和語灯録p.659)

と、法然という房号の名の由来をいわれている。

《然》とは、燃の原字であり火がもえるという意。借りて「是認」の意をしめし、和語では、しかある、そうである、そのような状態であるという意で「しかり」と訓む。法然聖人が示されたように《爾》もまた、しかある、しかり、という意味である。
御開山はこの《然》と《爾》の漢字を「しからしむ」と使役で読まれ、「自然」という漢語を、

「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。
「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。 (正像 P.621)

と読まれた。
本来ならば「自然」は「おのづからしかる」という意味で「しからしむ」などとは読めないのだが、「しからしむ」と読むことによって、自然という言葉に阿弥陀如来の本願力のはたらきを示そうとされたのであろう。このような発想は日本人の持つ、自然とともにあり 自然に抱(いだ)かれているという自然観を思わせるとともに『無量寿経』の「其国不逆違 自然之所牽(その国逆違せず、自然の牽くところなり)」という語との関係を想起させる。いわゆる「願力自然」の意に阿弥陀仏の本願力をあらわす「おのづからしからしむ」という自然法爾をみられたのである。
また「真仏土巻」で引文されておられる性功徳釈(真巻 P.358)で、浄土の本質・本性を「また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり」(真巻 P.358)とある。この「必然の義」という「必ずそうなる、それ以外にはありえないこと」という語の意から、然をしからしむと読まれたのであろう。
「これ浄土は法性に随順して法本に乖かず」との「正道大慈悲 出世善根生」と智慧を根とする正道の大慈悲の展開する界(さかい)であった。「積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて積習して成ぜるところなり」(真巻 P.358)の「願力成就」の浄土であったから、その本願力の意を信(まこと)として受容した者の往生することは必然である意を自然法爾とされたのであった。

面白いのは、自然という語(ことば)は使っていないが、同じような自然(自ずから然らしむ)という発想をされたのが越前の山に入り「只管打坐(しかんたざ)」されたのが道元禅師である。

たたし心をもてはかることなかれ。ことはをもていふことなかれ。たたわか身をも。心をも。はなちわすれて。佛のいへになけいれて。佛のかたよりおこなはれて。これにしたかひもてゆくとき。ちからをもいれす。こころをも。つひやさすして。生死をはなれ佛となる。(『正法眼蔵』生死の巻「原カタカナ」)(『大正蔵』82、305頁)

表現の形式こそ違うのだが、同じことをいわれているのだなと、只管(ひたすら)、なんまんだぶを称えるのも、いいものである。一向(ひたすら)専念無量寿仏である。


  1. 「淮南子(えなんじ)」 に「往古来今謂之宙、天地四方上下謂之字 (往古来今、これを宙といい、天地四方上下、これを字という)」とある。「宇」は「天地四方上下」の空間を意味し、「宙」は「往古来今」──「往古」(過ぎ去った過去)、「来今」(これから来る今、現在を含む未来といふ時間)──の過去・現在・未来の時間を示す。宇宙と熟し時間と空間(時空)を意味する。宇を天とし宙を地とし天地ともいふ。