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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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:1.中間を省略することを示す語。「…から…まで」という意。数の多少、時間の長短を兼ねおさめることを表す。
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Ⅰ.中間を省略することを示す語。「…から…まで」という意。数の多少、時間の長短を兼ねおさめることを表す。
:2.最少限度を示す語。下至に同じ。
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Ⅱ.最少限度を示す語。下至に同じ。
  
 
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浄土真宗では4通りに解釈されている。
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:① 中間を省略することを表す。「…から…まで」という意。数の多少、時間の長短を兼ねおさめることを表す。『文類聚鈔』に「『経』に「乃至」といふは、上下を兼ねて中を略するの言なり。」([[P:479|註479]]) とある。〔兼両略中〕
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:② 最小限度を表す。下至に同じ。「行巻」に「『経』に「乃至」といひ、釈に「下至」といへり。乃下その言異なりといへども、その意これ一つなり。」([[P:188|註188]]) とある。〔乃下合釈〕
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:⓷ 一声の念仏も数多くの念仏も包み容れることを表す。「行巻」に「また乃至とは一多包容の言なり。」([[P:188|註188]])とある。〔一多包容〕
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:⓸ 数多くの念仏も数少ない念仏も摂(おさ)めることをあらわす。「信巻」に「「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。」([[P:251|註251]]) とある。〔総摂多少〕
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①②は「乃至」の言葉の意味からの解釈、⓷⓸は第十八願文の「十念」に「乃至」が付されている意味からの解釈である。→[[行の一念]] →[[信の一念]](浄土真宗辞典)
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*〔<kana>兼両略中(けんりょう-りゃくちゅう)</kana>〕〔<kana>乃下合釈(ないげ-がっしゃく)</kana>〕〔<kana>一多包容(いった-ほうよう)</kana>〕〔<kana>総摂多少(そうせつ-たしょう)</kana>〕は林遊の追記。
  
「乃」は「すなわち」とも読むので、乃至一念は「すなわち一念に至るまで」と読む。(お、なんじ、すなわ-ち、のり、おさむ、あるいは、などとも読む)。<br>
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「乃」は「すなわち」とも読むので、乃至一念は「すなわち一念に至るまで」と読む。「乃」は(お、なんじ、すなわ-ち、のり、おさむ、あるいは)、などとも読む。<br>
なお、「すなわち」と訓ずる漢字には、「即」や「則」や「便」などがあり、Aを受けてBとの接続関係を示す語である。
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なお、「すなわち」と訓ずる漢字には、「即」や「則」や「便」や「乃」などがあり、Aを受けてBとの接続関係を示す語である。
  
*'''即''' AすなわちBであるような、必然的で密接な関係の場合は即を用いる。次の則より強い接続になる。即時と熟す場合など。この即に関しては、第十八願成就文の「即得往生」の即を解釈するばあいに異時即か同時即かの論義がある。大谷派の浄土をもたない曲学阿世の学者は往生の一文に両意があることを理解できないので、即得往生の語を現生のみにとるので困ったものではある。四十八願中の第三願に悉皆金色の願があるのだが、お前ら金色かよと法然聖人の使われた論法で突っ込まれたら困るかも。
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*'''即''' AすなわちBであるような、必然的で密接な関係の場合は即を用いる。次の則より強い接続になる。即時と熟す場合など。この即に関しては、第十八願成就文の「即得往生」の即を解釈するばあいに異時即か同時即かの論義がある。『智度論』には、「即時に二種有り、一には同時、二には久しといえども、更に異法無し。即ちこの心にして、而も[[七覚]]を修むることを得るも、また即時と名づく。」[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1509_.25.0313c25.html (*)] とあり、同時即と異時即を論じている。
 
*'''則''' AであるならばBというように、Bの結論を出すためにAとBが密接な関係で接続する場合は、則ちを用いる。法則とか規則と熟す。
 
*'''則''' AであるならばBというように、Bの結論を出すためにAとBが密接な関係で接続する場合は、則ちを用いる。法則とか規則と熟す。
*'''便''' AはたやすくBであるというような即よりも弱い接続関係を示す。なお、親鸞聖人は『観経』の即便往生の語を即と便に分けて、即の語は『無量寿経』による第十八願の信一発の「即往生」とし、便の語は『観経』で説かれる不本意の「便往生」の第十九願をあらわす語であるとみられた。
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*'''便''' AはたやすくBであるというような即よりも弱い接続関係を示す。なお、親鸞聖人は『観経』の即便往生の語を即と便に分けて、即の語は『無量寿経』による第十八願の信一発の「即往生」とし、便の語は『観経』で説かれる随他意(如来の不本意)の「便往生」の第十九願をあらわす語であるとみられた。
*'''乃''' Aと、そこで一時がおわり、そしてBというような緩い接続関係を表現する場合に用いる。親鸞聖人は乃至の語を「一多包容」(「行巻」乃下釈)とか「兼上下略」(『浄土文類聚鈔』)と釈しておられる。要するに、「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」ということである。
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*'''乃''' Aと、そこで一時がおわり、そしてBというような緩い接続関係を表現する場合に用いる。親鸞聖人は乃至の語を「兼両略中」「乃下合釈」「一多包容」「総摂多少」と釈しておられる。<br />
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要するに、「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」ということである。
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:→[[乃至十念]]
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:→[[即]]
 
:→[[安心論題/十念誓意]]
 
:→[[安心論題/十念誓意]]
  
  
 
[[Category:追記]]
 
[[Category:追記]]

2024年7月7日 (日) 10:27時点における最新版

ないし

Ⅰ.中間を省略することを示す語。「…から…まで」という意。数の多少、時間の長短を兼ねおさめることを表す。

Ⅱ.最少限度を示す語。下至に同じ。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ないし 乃至

浄土真宗では4通りに解釈されている。

① 中間を省略することを表す。「…から…まで」という意。数の多少、時間の長短を兼ねおさめることを表す。『文類聚鈔』に「『経』に「乃至」といふは、上下を兼ねて中を略するの言なり。」(註479) とある。〔兼両略中〕
② 最小限度を表す。下至に同じ。「行巻」に「『経』に「乃至」といひ、釈に「下至」といへり。乃下その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(註188) とある。〔乃下合釈〕
⓷ 一声の念仏も数多くの念仏も包み容れることを表す。「行巻」に「また乃至とは一多包容の言なり。」(註188)とある。〔一多包容〕
⓸ 数多くの念仏も数少ない念仏も摂(おさ)めることをあらわす。「信巻」に「「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。」(註251) とある。〔総摂多少〕

①②は「乃至」の言葉の意味からの解釈、⓷⓸は第十八願文の「十念」に「乃至」が付されている意味からの解釈である。→行の一念 →信の一念(浄土真宗辞典)

  • 兼両略中(けんりょう-りゃくちゅう)〕〔乃下合釈(ないげ-がっしゃく)〕〔一多包容(いった-ほうよう)〕〔総摂多少(そうせつ-たしょう)〕は林遊の追記。

「乃」は「すなわち」とも読むので、乃至一念は「すなわち一念に至るまで」と読む。「乃」は(お、なんじ、すなわ-ち、のり、おさむ、あるいは)、などとも読む。
なお、「すなわち」と訓ずる漢字には、「即」や「則」や「便」や「乃」などがあり、Aを受けてBとの接続関係を示す語である。

  •  AすなわちBであるような、必然的で密接な関係の場合は即を用いる。次の則より強い接続になる。即時と熟す場合など。この即に関しては、第十八願成就文の「即得往生」の即を解釈するばあいに異時即か同時即かの論義がある。『智度論』には、「即時に二種有り、一には同時、二には久しといえども、更に異法無し。即ちこの心にして、而も七覚を修むることを得るも、また即時と名づく。」(*) とあり、同時即と異時即を論じている。
  •  AであるならばBというように、Bの結論を出すためにAとBが密接な関係で接続する場合は、則ちを用いる。法則とか規則と熟す。
  • 便 AはたやすくBであるというような即よりも弱い接続関係を示す。なお、親鸞聖人は『観経』の即便往生の語を即と便に分けて、即の語は『無量寿経』による第十八願の信一発の「即往生」とし、便の語は『観経』で説かれる随他意(如来の不本意)の「便往生」の第十九願をあらわす語であるとみられた。
  •  Aと、そこで一時がおわり、そしてBというような緩い接続関係を表現する場合に用いる。親鸞聖人は乃至の語を「兼両略中」「乃下合釈」「一多包容」「総摂多少」と釈しておられる。

要するに、「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」ということである。

乃至十念
安心論題/十念誓意