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;仏法の大海は、信を能入と<kana>為(な)</kana>し、智を能度と<kana>為(な)</kana>す。(大智度論) | ;仏法の大海は、信を能入と<kana>為(な)</kana>し、智を能度と<kana>為(な)</kana>す。(大智度論) | ||
+ | (仏法の大海には、'''「[[信]]」'''がなければ入ることができず、'''「[[智慧]]」'''がなければ〔彼岸へ〕度(わた)ることができない。)→[https://www.kanjipedia.jp/kanji/0005138700 度] | ||
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:問曰。諸佛經何以故初稱如是語 | :問曰。諸佛經何以故初稱如是語 | ||
::問うて曰く、諸の仏の経は、何を以つての故に、初めに「如是」の語と称す。 | ::問うて曰く、諸の仏の経は、何を以つての故に、初めに「如是」の語と称す。 | ||
:答曰。佛法大海信為能入。智為能度。如是義者即是信。 | :答曰。佛法大海信為能入。智為能度。如是義者即是信。 | ||
− | :: | + | ::答えて曰く、'''仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為(な)す。如是の義とは、即ち是れ信なり。''' |
:若人心中有信清淨。是人能入佛法。若無信是人不能入佛法。 | :若人心中有信清淨。是人能入佛法。若無信是人不能入佛法。 | ||
::もし人、心中に信有りて、清浄なれば、是の人は、能く仏法に入る。もし信なくば、是の人は仏法に入ることあたわず。 | ::もし人、心中に信有りて、清浄なれば、是の人は、能く仏法に入る。もし信なくば、是の人は仏法に入ることあたわず。 | ||
:不信者言是事不如是。是不信相。信者言是事如是 | :不信者言是事不如是。是不信相。信者言是事如是 | ||
− | :: | + | ::信ぜざる者の言わく「是の事は、是の如くならず」と。是れ不信の相なり。信ずる者は「是の事は是の如し」と言う。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1509_.25.0062c17.html 大智度論] |
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2024年7月9日 (火) 15:59時点における最新版
- 仏法の大海は、信を能入と
為 し、智を能度と為 す。(大智度論)
(仏法の大海には、「信」がなければ入ることができず、「智慧」がなければ〔彼岸へ〕度(わた)ることができない。)→度
- 大智度論
- 問曰。諸佛經何以故初稱如是語
- 問うて曰く、諸の仏の経は、何を以つての故に、初めに「如是」の語と称す。
- 答曰。佛法大海信為能入。智為能度。如是義者即是信。
- 答えて曰く、仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為(な)す。如是の義とは、即ち是れ信なり。
- 若人心中有信清淨。是人能入佛法。若無信是人不能入佛法。
- もし人、心中に信有りて、清浄なれば、是の人は、能く仏法に入る。もし信なくば、是の人は仏法に入ることあたわず。
- 不信者言是事不如是。是不信相。信者言是事如是
- 信ぜざる者の言わく「是の事は、是の如くならず」と。是れ不信の相なり。信ずる者は「是の事は是の如し」と言う。大智度論