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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2019年9月24日 (火) 15:02時点における最新版
よだつ
他の教義をいったん承認した上で、それを超える自宗の教義を打ちだし、他の教義の本質的意義を奪いとること。(真要鈔 P.973)
ほめたりそしったりすること。 (論註P.72)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
浄土宗大辞典から「参照読み込み (transclusion: トランスクルージョン)」
よだつ/与奪
法を明かすときの二つの態度。与釈と奪釈。本義の肝要を拡張、緩和して共通性を見出しうる事柄をも肯定するのが与釈。与とは許容するの意。逆に所余を排除して厳密に旨とするところのみを是とするのが奪釈。状況に応じて個別に用いたり、また段階的に自宗に教導するために併用したりする場合もある。例として『摩訶止観』三上で章安灌頂は「私に謂く、随情は是れ併べて与え、随情智は是れ半ば与え半ば奪い、随智は是れ併べて奪うなり」(正蔵四六・二七下)という。その結果同一の事項について説かれた教説に矛盾した説相が現れることもありうるが、矛盾した複数の教説に直面した場合には、これを前提としてその受け手の教相判釈の手がかりともなる。例えば良忠『決疑鈔』二に「此の如きの与奪は釈義の法なり。所謂る上の文は広く堪不堪の機を挙ぐ。故に与えて三五と云う。此の文は即ち多分の機に約す。故に奪って無一と云う」(浄全七・二二九上)とある。
【参照項目】➡教相判釈
【執筆者:小澤憲雄】