「三宝」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(同じ利用者による、間の3版が非表示) | |||
9行目: | 9行目: | ||
それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究めることができるであろう。──(わたくしには地獄は生滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境界も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕するところの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である)と。 | それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究めることができるであろう。──(わたくしには地獄は生滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境界も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕するところの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である)と。 | ||
− | {{MK|九}} アーナンダよ。その'''〈法の鏡〉'''と言う名の法門とは何であるか?──それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究める事ができるであろう、──〈わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪い所・苦しい所に堕することもない。わたしは、聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である〉と。アーナンダよ。ここに、立派な弟子がいて、'''ブッダ''' | + | {{MK|九}} アーナンダよ。その'''〈法の鏡〉'''と言う名の法門とは何であるか?──それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究める事ができるであろう、──〈わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪い所・苦しい所に堕することもない。わたしは、聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である〉と。アーナンダよ。ここに、立派な弟子がいて、'''ブッダ'''に対して清らかな信仰を起こして居る、──〈かの尊師は、このように、真人・正しく覚りを開いた人・明知と実行とを完成している人・幸いな人・世間を知っている人・無上の人・頑なな男を統御する御者・神々と人間との師・ブッダ(覚った人)、尊師である〉<ref>真人以下は仏の十号。</ref>と。 |
またかれは'''法'''に対して清らかな信仰を起こして居る、──〈尊師が見事に説かれた法は、現にありありと見られるものであり、直ちにききめのあるものであり、実際に確かめられるものであり、理想の境地に導くものであり、諸々の知者が各自みずら証するものである〉と。 | またかれは'''法'''に対して清らかな信仰を起こして居る、──〈尊師が見事に説かれた法は、現にありありと見られるものであり、直ちにききめのあるものであり、実際に確かめられるものであり、理想の境地に導くものであり、諸々の知者が各自みずら証するものである〉と。 | ||
かれは'''サンガ'''(つどい)に対して清らかな信仰を起こして居る、──〈尊師の弟子のつどいはよく実践している。尊師の弟子のつどいは真っ直ぐに実践している。尊師の弟子のつどいとは正しい道理に従って実践している。尊師の弟子の集いは和敬して実践して居る。尊師の弟子のつどいとは、すなわち、二人ずつの四組と八人の人々(四双八輩)<ref>[[四向四果]]の[[八輩]] </ref>とであるが、彼等を敬うべく、尊ぶべく、もてなすべく、合掌すべきであり、世間の最上の福田である〉と。 | かれは'''サンガ'''(つどい)に対して清らかな信仰を起こして居る、──〈尊師の弟子のつどいはよく実践している。尊師の弟子のつどいは真っ直ぐに実践している。尊師の弟子のつどいとは正しい道理に従って実践している。尊師の弟子の集いは和敬して実践して居る。尊師の弟子のつどいとは、すなわち、二人ずつの四組と八人の人々(四双八輩)<ref>[[四向四果]]の[[八輩]] </ref>とであるが、彼等を敬うべく、尊ぶべく、もてなすべく、合掌すべきであり、世間の最上の福田である〉と。 | ||
− | かれは、聖者の愛する、切れ切れではなくて、瑕(きず)の無い、斑点(まじり) | + | かれは、聖者の愛する、切れ切れではなくて、瑕(きず)の無い、斑点(まじり)のない、よごれていないで、自在であって、知者の称賛する、汚れの無い、精神統一をあらわし出すような'''戒律'''<ref>戒律 聖者も護らなければならぬ五戒。</ref>を、身に具現している。 |
アーナンダよ。これこそ'''〈法の鏡〉'''という名の法門であって、それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究めることができるであろう、〈わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である〉と。」 | アーナンダよ。これこそ'''〈法の鏡〉'''という名の法門であって、それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究めることができるであろう、〈わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である〉と。」 | ||
{{MK|一〇}} さて尊師は其のナーディカで〈煉瓦堂〉の内にとどまって、修行僧たちのために、このように数多くの〈法に関する講話〉をなさった。──「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。知慧とはこのようなものである。……乃至──欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから全く解脱する」と。(『ブッダ最後の旅』P.49~51) | {{MK|一〇}} さて尊師は其のナーディカで〈煉瓦堂〉の内にとどまって、修行僧たちのために、このように数多くの〈法に関する講話〉をなさった。──「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。知慧とはこのようなものである。……乃至──欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから全く解脱する」と。(『ブッダ最後の旅』P.49~51) | ||
+ | |||
+ | :→[[三宝]] | ||
+ | :→[[三帰依]] | ||
+ | :→[[五戒]] | ||
---- | ---- | ||
<references /> | <references /> | ||
<p id="page-top">[[#|▲]]</p> [[Category:追記]] | <p id="page-top">[[#|▲]]</p> [[Category:追記]] |
2019年11月13日 (水) 11:01時点における最新版
『ブッダ最後の旅』大パリニッバーナ経 第二章より抜粋
- 「法の鏡」(三宝)
八 さて アーナンダよ。人間たるものが死ぬというのは、不思議なことではない。 しかしもしもそれぞれの人が死んだときに、修行完成者に近づいて、この意義をたずねるとしたら、これは修行完成者にとって煩わしいことである。
アーナンダよ。その故に、わたしはここに〈法の鏡〉という名の法門を説こう。 それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究めることができるであろう。──(わたくしには地獄は生滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境界も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕するところの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である)と。
九 アーナンダよ。その〈法の鏡〉と言う名の法門とは何であるか?──それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究める事ができるであろう、──〈わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪い所・苦しい所に堕することもない。わたしは、聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である〉と。アーナンダよ。ここに、立派な弟子がいて、ブッダに対して清らかな信仰を起こして居る、──〈かの尊師は、このように、真人・正しく覚りを開いた人・明知と実行とを完成している人・幸いな人・世間を知っている人・無上の人・頑なな男を統御する御者・神々と人間との師・ブッダ(覚った人)、尊師である〉[1]と。
またかれは法に対して清らかな信仰を起こして居る、──〈尊師が見事に説かれた法は、現にありありと見られるものであり、直ちにききめのあるものであり、実際に確かめられるものであり、理想の境地に導くものであり、諸々の知者が各自みずら証するものである〉と。 かれはサンガ(つどい)に対して清らかな信仰を起こして居る、──〈尊師の弟子のつどいはよく実践している。尊師の弟子のつどいは真っ直ぐに実践している。尊師の弟子のつどいとは正しい道理に従って実践している。尊師の弟子の集いは和敬して実践して居る。尊師の弟子のつどいとは、すなわち、二人ずつの四組と八人の人々(四双八輩)[2]とであるが、彼等を敬うべく、尊ぶべく、もてなすべく、合掌すべきであり、世間の最上の福田である〉と。 かれは、聖者の愛する、切れ切れではなくて、瑕(きず)の無い、斑点(まじり)のない、よごれていないで、自在であって、知者の称賛する、汚れの無い、精神統一をあらわし出すような戒律[3]を、身に具現している。
アーナンダよ。これこそ〈法の鏡〉という名の法門であって、それを具現したならば、立派な弟子は、もしも望むならば、みずから自分の運命をはっきりと見究めることができるであろう、〈わたくしには地獄は消滅した。畜生のありさまも消滅した。餓鬼の境涯も消滅した。悪いところ・苦しいところに堕することもない。わたしは聖者の流れに踏み入った者である。わたしはもはや堕することの無い者である。わたしは必ずさとりを究める者である〉と。」
一〇 さて尊師は其のナーディカで〈煉瓦堂〉の内にとどまって、修行僧たちのために、このように数多くの〈法に関する講話〉をなさった。──「戒律とはこのようなものである。精神統一とはこのようなものである。知慧とはこのようなものである。……乃至──欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから全く解脱する」と。(『ブッダ最後の旅』P.49~51)