「素懐」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | : | + | :またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。{{WavyUL|めでたさ}}申しつくすべくも候はず。([[消息上#P--738|御消息 P.738]]) |
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− | : | + | :なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、{{WavyUL|めでたき}}ことにて候へ。([[消息上#no4|御消息 P.742]]) |
と、めでたいことであるとご返事されておられた。 | と、めでたいことであるとご返事されておられた。 | ||
+ | *ここでのめでたいは、みごとである、喜び祝うに値するさまのこと。 | ||
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越前では夜伽(通夜)には赤飯を振る舞った。<br /> | 越前では夜伽(通夜)には赤飯を振る舞った。<br /> | ||
この赤飯を提供するのは、嫁方の実家が為すべきこととされていた。<br /> | この赤飯を提供するのは、嫁方の実家が為すべきこととされていた。<br /> | ||
− | + | もっとも、この赤飯は通常の赤飯と違って少しく色の薄い赤飯であった。この通夜に赤飯を振る舞う風習に関して、地元の新聞に東京の方から、福井(越前)の人間は常識がないといふ投稿があったこともある。<br /> | |
− | + | ご法義繁盛の地の関西と違い関東の人は、浄土真宗のご法義が衰退している「地方」であるから、人が死ぬという日本の伝統文化の意義を知らないのだと、新聞を読んだ青年期に思ったものである。<br /> | |
ともあれ、関西では、人が死ぬことを'''「往生の素懐を遂げる」'''といふのだが、その往生の素懐を遂げたことを祝って越前では通夜に赤飯を振る舞ったものであった。もっとも遺族の心を忖度して赤飯の色は少しく薄い。 | ともあれ、関西では、人が死ぬことを'''「往生の素懐を遂げる」'''といふのだが、その往生の素懐を遂げたことを祝って越前では通夜に赤飯を振る舞ったものであった。もっとも遺族の心を忖度して赤飯の色は少しく薄い。 | ||
− | + | 浄土真宗では、グリーフ・ケア(別離の悲嘆)を超越する言葉として、無くなった人に対する最上の賛辞が、なんまんだぶという言葉であった。あなたは、もう既に西方仏国の仏さまに成られたのですね、煩悩の憂いの無い仏陀と成られたのですねと、なんまんだぶ、なんまんだぶと讃嘆するのであった。<br /> | |
あんたも、親様の浄土へ往きなさったか、おっつけウラも参らしてもらうで、お浄土で再会しような、と、なんまんだぶを称えるのが'''「往生の素懐を遂げた」'''同朋への賛辞であった。それで越前では、'''「往生の素懐」'''を遂げた祝いとして、通夜の振る舞いに赤飯を提供するのであった。もっともこの赤飯の風習は、最近寂れているので越前の坊さんがんばれよ、と無責任な在野の門徒であった。 | あんたも、親様の浄土へ往きなさったか、おっつけウラも参らしてもらうで、お浄土で再会しような、と、なんまんだぶを称えるのが'''「往生の素懐を遂げた」'''同朋への賛辞であった。それで越前では、'''「往生の素懐」'''を遂げた祝いとして、通夜の振る舞いに赤飯を提供するのであった。もっともこの赤飯の風習は、最近寂れているので越前の坊さんがんばれよ、と無責任な在野の門徒であった。 | ||
2024年7月30日 (火) 17:46時点における最新版
そかい
【左訓】「もとのおんこころざしなり」(一多 P.686)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
素(もと)
- 往生の素懐
御開山は、関東の門弟の往生を知らせる消息に、
- またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。めでたさ申しつくすべくも候はず。(御消息 P.738)
とか、
- なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。(御消息 P.742)
と、めでたいことであるとご返事されておられた。
- ここでのめでたいは、みごとである、喜び祝うに値するさまのこと。
- 通夜の赤飯
越前では夜伽(通夜)には赤飯を振る舞った。
この赤飯を提供するのは、嫁方の実家が為すべきこととされていた。
もっとも、この赤飯は通常の赤飯と違って少しく色の薄い赤飯であった。この通夜に赤飯を振る舞う風習に関して、地元の新聞に東京の方から、福井(越前)の人間は常識がないといふ投稿があったこともある。
ご法義繁盛の地の関西と違い関東の人は、浄土真宗のご法義が衰退している「地方」であるから、人が死ぬという日本の伝統文化の意義を知らないのだと、新聞を読んだ青年期に思ったものである。
ともあれ、関西では、人が死ぬことを「往生の素懐を遂げる」といふのだが、その往生の素懐を遂げたことを祝って越前では通夜に赤飯を振る舞ったものであった。もっとも遺族の心を忖度して赤飯の色は少しく薄い。
浄土真宗では、グリーフ・ケア(別離の悲嘆)を超越する言葉として、無くなった人に対する最上の賛辞が、なんまんだぶという言葉であった。あなたは、もう既に西方仏国の仏さまに成られたのですね、煩悩の憂いの無い仏陀と成られたのですねと、なんまんだぶ、なんまんだぶと讃嘆するのであった。
あんたも、親様の浄土へ往きなさったか、おっつけウラも参らしてもらうで、お浄土で再会しような、と、なんまんだぶを称えるのが「往生の素懐を遂げた」同朋への賛辞であった。それで越前では、「往生の素懐」を遂げた祝いとして、通夜の振る舞いに赤飯を提供するのであった。もっともこの赤飯の風習は、最近寂れているので越前の坊さんがんばれよ、と無責任な在野の門徒であった。
生きることに意味があるように、死ぬることにも意義がある、と説くのが往生浄土の真宗であった。ありがたいこっちゃ。
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