「仏をほめたてまつるになる」の版間の差分
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御開山が称名の根拠とされたのは『論註』讃歎門の、 | 御開山が称名の根拠とされたのは『論註』讃歎門の、 | ||
: 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。 ([[浄土論註 (七祖)#P--103|論註 P.103]]) | : 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。 ([[浄土論註 (七祖)#P--103|論註 P.103]]) | ||
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: しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。([[行巻#P--146|行巻 P.146]]) | : しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。([[行巻#P--146|行巻 P.146]]) | ||
− | + | とされておられた。ちなみに「称」は、となえるとともに「ほめる」といふ意味があるので浄土真宗では「称える」として「唱える」の語は使わない。→[[称]] | |
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− | ほめる時は相手の徳をよく知ってほめないとほめた事にならないのです。ところが仏様の徳という事になりますと、これは凡夫に分かる訳はありません。「如来の功徳は仏のみ知ろしめす」([[信巻本#no8|信巻 P.213]]) 或いは「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」<ref>唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相(唯(ただ) | + | ほめる時は相手の徳をよく知ってほめないとほめた事にならないのです。ところが仏様の徳という事になりますと、これは凡夫に分かる訳はありません。「如来の功徳は仏のみ知ろしめす」([[信巻本#no8|信巻 P.213]]) 或いは「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」<ref>唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相(唯(ただ)、仏と仏とのみ、乃(いま)し能く諸法の実相を究尽したまえり。)</ref>と『法華経』の方便品に書いてあります。ただ仏と仏とのみが仏の徳を知ろしめす。それだったら仏以外の者は仏の徳をほめる事はできません。知らないものはほめられません。知らないものをほめたら大変な目に遭います。お茶碗やお軸をほめる時には余程気を付けなさい。うっかりほめたら、ほめ損ねたら大変な事です。汚い茶碗だなと思っていたらもの凄く上等だったり。私は値段を聞くまで分かりません。そんな事はよくあります。お軸などでもつまらないものをほめたら気を悪くされます。だからほめる時には余程分かっていてほめないと、ほめた事にはならないのです。これは要らない事です。<br /> |
そうすると仏様の徳をほめる資格のあるのは仏様だけなのです。だから〔[[第十七願]]で〕諸仏にほめさせようとしたのです。<br /> | そうすると仏様の徳をほめる資格のあるのは仏様だけなのです。だから〔[[第十七願]]で〕諸仏にほめさせようとしたのです。<br /> | ||
だけどたった一つだけ凡夫が仏様をほめる事ができるのです。それが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏と言ったら阿弥陀様の徳を過不足なしに{{DotUL|ほめた事になるのです}}。だから親鸞聖人は「南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり」([[尊号真像銘文#P--655|尊号 P.655]]) とおっしゃったのです。よく言葉に気を付けておられるのです。「ほめたてまつる」と言わないで「ほめた事になるのだ」お前にはそれ以外にはできないという事です。それで南無阿弥陀仏と称える事は如実に讃嘆した事になるのだ。何故ならば南無阿弥陀仏という名には仏様のお徳の全てが込めて与えられているから、南無阿弥陀仏と申したら仏様の徳の全てをほめた事になるのだ。その意味ではお釈迦様が『大経』をお説きになるのも私が南無阿弥陀仏と称えるのもどちらも如実讃嘆という所では同じだという事を親鸞聖人がこの十七願で言おうとされたのです。「凡夫の行者、念仏の行者が如来と等しいという事を顕わしている文章なのだよ」とおっしゃるのです。[[第十七願]]を見て何処にそんな事が言われているのかという所があるのですが、それは「如実讃嘆」という所なのです。如実に讃嘆する、如来様のお徳をたたえるという事においてお釈迦様が南無阿弥陀仏と言おうと、また『大無量寿経』お説きになろうと、私が南無阿弥陀仏と言おうと、{{ULR|その徳は全く同じだという事です}}。 | だけどたった一つだけ凡夫が仏様をほめる事ができるのです。それが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏と言ったら阿弥陀様の徳を過不足なしに{{DotUL|ほめた事になるのです}}。だから親鸞聖人は「南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり」([[尊号真像銘文#P--655|尊号 P.655]]) とおっしゃったのです。よく言葉に気を付けておられるのです。「ほめたてまつる」と言わないで「ほめた事になるのだ」お前にはそれ以外にはできないという事です。それで南無阿弥陀仏と称える事は如実に讃嘆した事になるのだ。何故ならば南無阿弥陀仏という名には仏様のお徳の全てが込めて与えられているから、南無阿弥陀仏と申したら仏様の徳の全てをほめた事になるのだ。その意味ではお釈迦様が『大経』をお説きになるのも私が南無阿弥陀仏と称えるのもどちらも如実讃嘆という所では同じだという事を親鸞聖人がこの十七願で言おうとされたのです。「凡夫の行者、念仏の行者が如来と等しいという事を顕わしている文章なのだよ」とおっしゃるのです。[[第十七願]]を見て何処にそんな事が言われているのかという所があるのですが、それは「如実讃嘆」という所なのです。如実に讃嘆する、如来様のお徳をたたえるという事においてお釈迦様が南無阿弥陀仏と言おうと、また『大無量寿経』お説きになろうと、私が南無阿弥陀仏と言おうと、{{ULR|その徳は全く同じだという事です}}。 | ||
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2022年9月16日 (金) 01:41時点における最新版
梯實圓和上の講義録から、なんまんだぶを称えることは「如実讃嘆」であることの意を窺う。『論註』には称名を「讃嘆門」とされておられた。なお〔…〕内や各文へのリンクは林游が付した。
御開山が称名の根拠とされたのは『論註』讃歎門の、
- 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。 (論註 P.103)
の文であり、
- しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(行巻 P.146)
とされておられた。ちなみに「称」は、となえるとともに「ほめる」といふ意味があるので浄土真宗では「称える」として「唱える」の語は使わない。→称
- 第十七願の如実讃嘆と衆生の称名
ほめる時は相手の徳をよく知ってほめないとほめた事にならないのです。ところが仏様の徳という事になりますと、これは凡夫に分かる訳はありません。「如来の功徳は仏のみ知ろしめす」(信巻 P.213) 或いは「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」[1]と『法華経』の方便品に書いてあります。ただ仏と仏とのみが仏の徳を知ろしめす。それだったら仏以外の者は仏の徳をほめる事はできません。知らないものはほめられません。知らないものをほめたら大変な目に遭います。お茶碗やお軸をほめる時には余程気を付けなさい。うっかりほめたら、ほめ損ねたら大変な事です。汚い茶碗だなと思っていたらもの凄く上等だったり。私は値段を聞くまで分かりません。そんな事はよくあります。お軸などでもつまらないものをほめたら気を悪くされます。だからほめる時には余程分かっていてほめないと、ほめた事にはならないのです。これは要らない事です。
そうすると仏様の徳をほめる資格のあるのは仏様だけなのです。だから〔第十七願で〕諸仏にほめさせようとしたのです。
だけどたった一つだけ凡夫が仏様をほめる事ができるのです。それが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏と言ったら阿弥陀様の徳を過不足なしにほめた事になるのです。だから親鸞聖人は「南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり」(尊号 P.655) とおっしゃったのです。よく言葉に気を付けておられるのです。「ほめたてまつる」と言わないで「ほめた事になるのだ」お前にはそれ以外にはできないという事です。それで南無阿弥陀仏と称える事は如実に讃嘆した事になるのだ。何故ならば南無阿弥陀仏という名には仏様のお徳の全てが込めて与えられているから、南無阿弥陀仏と申したら仏様の徳の全てをほめた事になるのだ。その意味ではお釈迦様が『大経』をお説きになるのも私が南無阿弥陀仏と称えるのもどちらも如実讃嘆という所では同じだという事を親鸞聖人がこの十七願で言おうとされたのです。「凡夫の行者、念仏の行者が如来と等しいという事を顕わしている文章なのだよ」とおっしゃるのです。第十七願を見て何処にそんな事が言われているのかという所があるのですが、それは「如実讃嘆」という所なのです。如実に讃嘆する、如来様のお徳をたたえるという事においてお釈迦様が南無阿弥陀仏と言おうと、また『大無量寿経』お説きになろうと、私が南無阿弥陀仏と言おうと、その徳は全く同じだという事です。
- ↑ 唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相(唯(ただ)、仏と仏とのみ、乃(いま)し能く諸法の実相を究尽したまえり。)