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「各留半座」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 浄土に往生した者が、自らが座す台座の半分を<kana>留(とど)</kana>めおき、後に往生した者に分け与えること。『般舟讃』には  
:「おのおの半座を<kana>留(とど)</kana>めて<kana>来(きた)</kana>る人に<kana>与(あた)</kana>ふ (各留半座与来人)」 (七祖 753)
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:「おのおの半座を<kana>留(とど)</kana>めて<kana>来(きた)</kana>る人に<kana>与(あた)</kana>ふ (各留半座与来人)」 ([[般舟讃 (七祖)#P--753|七祖 753]])
 
とある。(浄土真宗辞典)
 
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「一蓮」は、一つの蓮の花。「托生」は、浄土の<kana>蓮(はちす)</kana>に生を托するという意で、浄土で一つの蓮に生まれるということ、<br />
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世俗では、最後まで行動、運命を共にする意味で悪をともにする意で使われることが多い。<br />
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林遊のばあちゃん(母親)は、オメ、母ちゃんは半座あけて待ってるさけ必ずまいって来いよ、とよく言っていたものである。<br />
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なお、法然聖人は『西方指南抄』「[[JDS:正如房|正如房]]」への御消息で、
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'''現代語'''(面影人は法然『式子内親王伝』石丸晶子著より)
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:同じ仏の国に御一緒に参って、蓮の上で、この世の鬱とうしさを晴らし、ともに過去の因縁をも語り合い、互いに未来の教化を助け合うことこそ、かえすがえすも大事なことです
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といわれておられた。
  
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2024年3月10日 (日) 08:47時点における最新版

かくるはんざ 各留半座

 浄土に往生した者が、自らが座す台座の半分を(とど)めおき、後に往生した者に分け与えること。『般舟讃』には

「おのおの半座を(とど)めて(きた)る人に(あた)ふ (各留半座与来人)」 (七祖 753)

とある。(浄土真宗辞典)

類語に一蓮托生(いちれん-たくしょう)がある。
「一蓮」は、一つの蓮の花。「托生」は、浄土の(はちす)に生を托するという意で、浄土で一つの蓮に生まれるということ、
世俗では、最後まで行動、運命を共にする意味で悪をともにする意で使われることが多い。
林遊のばあちゃん(母親)は、オメ、母ちゃんは半座あけて待ってるさけ必ずまいって来いよ、とよく言っていたものである。
なお、法然聖人は『西方指南抄』「正如房」への御消息で、

おなじ仏のくににまいりあひて、はちすのうえにてこのよのいぶせさ[1]おもはるけ、ともに過去の因縁おもかたり、たがひに未来の化道おもたすけむことこそ、返々も詮にて候べき (西方指南抄)

現代語(面影人は法然『式子内親王伝』石丸晶子著より)

同じ仏の国に御一緒に参って、蓮の上で、この世の鬱とうしさを晴らし、ともに過去の因縁をも語り合い、互いに未来の教化を助け合うことこそ、かえすがえすも大事なことです

といわれておられた。


参照WEB版浄土宗大辞典の「一蓮托生」の項目


  1. いぶせさ。心のはればれとしないこと。うっとうしいこと。また、その度合。コトバンク