「光如来」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | 仏教では光とは智慧をあらわし、光如来と分節するころによって無礙光如来とは智慧の仏であるとされたのであろう。御開山は慈悲より智慧という大乗仏教の本流をみておられたのであろう。もちろん大乗の慈悲の背景は智慧であるが、その大悲の背景の智慧に着目されたのであった。 |
2017年12月8日 (金) 02:40時点における版
こうにょらい
「無礙光如来」を通常ならば「無礙光」「如来」と分節するのを親鸞聖人はあえて「無礙」「光如来」と分節している。「この如来は光明なり」(651頁14行)という旨を強調するためであろう。 (尊号 P.652)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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仏教では光とは智慧をあらわし、光如来と分節するころによって無礙光如来とは智慧の仏であるとされたのであろう。御開山は慈悲より智慧という大乗仏教の本流をみておられたのであろう。もちろん大乗の慈悲の背景は智慧であるが、その大悲の背景の智慧に着目されたのであった。