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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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さいど
 
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 迷い苦しんでいる人々を導いて、悟りの境界へ救い渡すこと。済は[[拯済]]のことで救うこと。また、済は斉の意で斉(ひと)しくする、自らの悟りと済しい者にするという意。度は度脱の意で迷いの生死海を渡すということ。
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 迷い苦しんでいる人々を導いて、さとりの境界へ救い渡すこと。済は[[拯済]]のことで救うこと。また、済にはわたす、なしとげるという意味があり、斉の字と音通して斉(ひと)しくすることである。阿弥陀仏が、自らのさとりと斉(ひと)しい者にするという意である。度はわたる、こえるという意味で迷いの生死海を超えてさとりの界(さかい)である浄土へ超え渡すということ。<br />
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善導大師は『観経疏』玄義分で、
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:しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を[[愍念]]したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済(すく)ふを用ゐるをなさん。([[観経疏 玄義分 (七祖)#P--312|玄義分 P.312]])
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と、「岸上のひと、なんぞ済(すく)ふを用ゐるをなさん」とされているのは、済(すく)うとは、自らと同じ岸の上の者とひとしい者にすることが、仏教での済(すく)うということであるの意であろう。キリスト教などでは、あくまで救う者と救われる者は別であるが、仏教においては、救われる者が救う者と同じさとりを開くことが救いという言葉の意味であった。そして、その救いは浄土に於いて完成するというのが浄土教であった。
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[[Category:追記]]

2017年8月9日 (水) 16:16時点における版

さいど

 迷い苦しんでいる人々を導いて、さとりの境界へ救い渡すこと。済は拯済のことで救うこと。また、済にはわたす、なしとげるという意味があり、斉の字と音通して斉(ひと)しくすることである。阿弥陀仏が、自らのさとりと斉(ひと)しい者にするという意である。度はわたる、こえるという意味で迷いの生死海を超えてさとりの界(さかい)である浄土へ超え渡すということ。
善導大師は『観経疏』玄義分で、

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済(すく)ふを用ゐるをなさん。(玄義分 P.312)

と、「岸上のひと、なんぞ済(すく)ふを用ゐるをなさん」とされているのは、済(すく)うとは、自らと同じ岸の上の者とひとしい者にすることが、仏教での済(すく)うということであるの意であろう。キリスト教などでは、あくまで救う者と救われる者は別であるが、仏教においては、救われる者が救う者と同じさとりを開くことが救いという言葉の意味であった。そして、その救いは浄土に於いて完成するというのが浄土教であった。