操作

観経疏 玄義分 (七祖)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 善導大師の教学上の主著。諸師の『観経』解釈をただし、同経の真意を明らかにしようとしたものである。「玄義分」「序分義」「定善義」「散善義」の4帖(巻)からなっているので『四帖疏』ともいわれる。大師の著作は本書の他に、『法事讃』2巻、『観念法門』1巻、『往生礼讃』1巻、『般舟讃』1巻があり、古来本書と合せて「五部九巻」と総称されている。またこの『観経疏』を「本疏」とも「解義分」とも呼ぶのに対し、他の4部を「具疏」とも「行儀分」とも呼びならわしている。

 「玄義分」は、経の要義をあらかじめ述べたもので、はじめに「帰三宝偈」(「勧衆偈」「十四行偈」)と呼ばれる偈頌がおかれ、以下7門にわたって善導大師独自の『観経』に対する見方が示されている。

 「序分義」以下の3帖は、経の本文を詳しく註釈したものである。「序分義」は、経の序説にあたる部分を註釈したもの、「定善義」は、経の本論にあたる正宗分の中、定善十三観の文について註釈したものである。「散善義」は、正宗分の中、散善を説く九品段と、得益分、流通分、耆闍分について註釈し、後跋を付したものである。その後跋の部分では、古今の諸師の誤った『観経』解釈をあらため、仏意を確定するという「古今楷定」の意趣が説き述べられている。

観経玄義分 巻第一

沙門善導集記

帰三宝偈

【1】
先づ大衆を勧めて願を発して三宝に帰せしむ。

道俗の時衆等、おのおの無上心を発せ
生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断すべし。
弥陀界に入らんと願じて、帰依し合掌し礼したてまつれ。
世尊、われ一心に尽十方
法性真如海と、報化等の諸仏と、
一々の菩薩身と、眷属等の無量なると、
荘厳および変化と、十地と三賢海と、
時劫の満と未満と、智行の円と未円と、
正使の尽と未尽と、習気の亡と未亡と、

功用と無功用と、証智と未証智と、
妙覚および等覚の、まさしく金剛心を受け
相応する一念の後、果徳涅槃のものに帰命したてまつる。
われらことごとく三仏菩提の尊に帰命したてまつる。
無礙の神通力をもつて、冥に加して願はくは摂受したまへ。
われらことごとく三乗等の賢聖の、仏の大悲心を学して、
長時に退することなきものに帰命したてまつる。
請ひ願はくははるかに加備したまへ。念々に諸仏を見たてまつらん。
われら愚痴の身、曠劫よりこのかた流転して、
いま釈迦仏の末法の遺跡たる
弥陀の本誓願、極楽の要門に逢へり。
定散等しく回向して、すみやかに無生の身を証せん。

われ菩薩蔵頓教、一乗海によりて、
偈を説きて三宝に帰して、仏心と相応せん。
十方恒沙の仏、六通をもつてわれを照知したまへ。

いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の教に乗じて、広く浄土の門を開く。

回向

願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、
同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。

七門料簡

【2】 この『観経』一部のうちに、先づ七門を作りて料簡し、しかして後に文によりて義を釈せん。
第一に先づ序題を標す。
第二に次にその名を釈す。
第三に文によりて義を釈し、ならびに宗旨の不同、教の大小を弁ず。
第四にまさしく説人の差別を顕す。
第五に定散二善、通別に異なることあることを料簡す。
第六に経論の相違を和会するに、広く問答を施して疑情を釈去す。
第七に韋提の、仏の正説を聞きて益を得る分斉を料簡す。

一、序題門

【3】 第一に先づ序題を標すとは、ひそかにおもんみれば、真如広大にして五乗もその辺を測らず。 法性深高にして十聖もその際を窮むることなし。 真如の体量、量性、蠢々の心を出でず。 法性無辺なり。

辺体すなはちもとよりこのかた動ぜず。 無塵の法界は凡聖斉しく円かに、両垢の如々すなはちあまねく含識を該ね、恒沙の功徳寂用湛然なり。 ただ垢障覆ふこと深きをもつて、浄体顕照するに由なし。

釈尊出世

ゆゑに〔釈尊は〕大悲をもつて西化を隠し、驚きて火宅の門に入り、甘露を灑ぎて群萌を潤し、智炬を輝かせばすなはち重昏を永夜より朗らかならしむ。 三檀等しく備はり、四摂をもつて斉しく収めて、長劫の苦因を開示し、永生の楽果に悟入せしむ。

【4】 群迷の性の隔たり、楽欲の不同をいはず。 一実の機なしといへども、等しく五乗の用あれば、慈雲を三界に布き、法雨を大悲より注がしむることを致す。 等しく塵労を洽すに、あまねく未聞の益を沾さざるはなし。 菩提の種子これによりてもつて心を抽き、正覚の芽念々にこれによりて増長す。

心によりて勝行を起すに、門八万四千に余れり。 漸頓すなはちおのおの所宜に称ふをもつて、縁に随ふもの、すなはちみな解脱を蒙る。

要弘二門

観経興起

【5】 しかるに衆生障重くして、悟を取るもの明めがたし。 教益多門なるべしといへども、凡惑遍攬するに由なし。

たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。 ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、

しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。

要 門

その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。
「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。

弘 願

弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。

「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。

また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。 三賢・十聖も測りて闚ふところにあらず。 いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。
仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。 かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。

ただ勤心に法を奉けて、畢命を期となして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。

これすなはち略して序題を標しをはりぬ。

二、釈名門

【6】 第二に次に名を釈すとは、『経』に「仏説無量寿観経一巻」とのたまへり。 「仏」といふはすなはちこれ西国(印度)の正音なり。 この土(中国)には「覚」と名づく。

自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす。 「自覚」といふは凡夫に簡異す。 これ声聞は狭劣にして、ただよく自利のみありて、闕けて利他の大悲なきによるがゆゑなり。 「覚他」といふは二乗に簡異す。 これ菩薩は智あるがゆゑによく自利し、悲あるがゆゑによく利他し、つねによく悲智双行して有無に着せざるによる。

「覚行窮満」といふは菩薩に簡異す。 これ如来は智行すでに窮まり、時劫すでに満ちて、三位を出過せるによるがゆゑに、名づけて仏となす。 「説」といふは口音に陳唱す。 ゆゑに名づけて説となす。 また如来、機に対して法を説きたまふこと多種不同なり。 漸頓よろしきに随ひ、隠彰異なることあり。 あるいは六根通じて説きたまふ。 相好もまたしかなり。 念に応じ、縁に随ひてみな証益を蒙る。

梵漢相対

【7】 「無量寿」といふは、すなはちこれこの地(中国)の漢音なり。

「南無阿弥陀仏」といふは、またこれ西国(印度)の正音なり。
また「南」はこれ帰、「無」はこれ命、「阿」はこれ無、「弥」はこれ量、「陀」はこれ寿、「仏」はこれ覚なり。 ゆゑに「帰命無量寿覚」といふ。 これすなはち梵漢相対するに、その義かくのごとし。 いま「無量寿」といふはこれ法、「覚」とはこれ人なり。 人法並べ彰す、ゆゑに阿弥陀仏と名づく。

浄土の荘厳

【8】 また人法といふはこれ所観の境なり。 すなはちその二あり。 一には依報、二には正報なり。

依報荘厳

依報のなかにつきてすなはちその三あり。

一には地下の荘厳、すなはち一切の宝幢光明のたがひにあひ映発する等これなり。

二には地上の荘厳、すなはち一切の宝地・池林・宝楼・宮閣等これなり。

三には虚空の荘厳、すなはち一切の変化の宝宮・華網・宝雲・化鳥・風光の動発せる声楽等これなり。

前のごとく三種の差別ありといへども、みなこれ弥陀浄国の無漏真実の勝相なり。 これすなはち総じて依報の荘厳を結成す。

また依報といふは、日観より下華座観に至るこのかたは、総じて依報を明かす。 この依報のなかにつきてすなはち通あり別あり。
別といふは、華座の一観はこれその別依なり、ただ弥陀仏に属す。
余の上の六観はこれその通依なり、すなはち法界の凡聖に属す。 ただ生ずることを得れば、ともに同じく受用す。 ゆゑに通といふ。

またこの六のなかにつきてすなはち真あり仮あり。 仮といふはすなはち日想・水想・氷想等、これその仮依なり。 これこの界中の相似可見の境相なるによるがゆゑなり。 真依といふは、すなはち瑠璃地より下宝楼観に至るこのかたは、これその真依なり。 これかの国の真実無漏の可見の境相なるによるがゆゑなり。

正報荘厳

二には正報のなかにつきてまたその二あり。 一には主荘厳、すなはち阿弥陀仏これなり。
二には聖衆荘厳、すなはち現にかしこにある衆および十方法界同生のものこれなり。 またこの正報のなかにつきてまた通あり別あり。

主荘厳

別といふはすなはち阿弥陀仏これなり。 すなはちこの別のなかにまた真あり仮あり。 仮正報といふはすなはち第八の像観これなり。 観音・勢至等もまたかくのごとし。

これ衆生障重く染惑処深きによりて、仏(釈尊)、たちまちに真容を想はんに、顕現するに由なきことを恐れたまふがゆゑに、真像を仮立してもつて心想を住めしめ、かの仏に同じてもつて境を証せしめたまふ。 ゆゑに仮正報といふ。

真正報といふはすなはち第九の真身観これなり。 これ前の仮正によりて、やうやくもつて乱想を息めて、心眼開くることを得て、ほぼかの方の清浄二報、種々の荘厳を見て、もつて昏惑を除く。 障を除くによるがゆゑに、かの真実の境相を見ることを得。

聖衆荘厳

通正報といふはすなはち観音聖衆等以下これなり。 向よりこのかたいふところの通別・真仮は、まさしく依正二報を明かす。

【9】 「」といふは照なり。 つねに浄信心の手をもつて、もつて智慧の輝を持ち、かの弥陀の正依等の事を照らす。
」といふはなり。 経よくを持ちて疋丈を成ずることを得て、その丈用あり。 経よく法を持ちて理事相応し、定散機に随ひて義零落せず。
よく修趣のものをして、かならず教行の縁因によりて、願に乗じて往生してかの無為の法楽を証せしむ。 すでにかの国に生じぬれば、さらに畏るるところなし。 長時に行を起して、果、菩提を極む。 法身常住なること、たとへば虚空のごとし。 よくこの益を招く。 ゆゑにいひて経となす。

「一巻」といふは、この『観経』一部は両会の正説なりといふといへども、総じてこの一を成ず。 ゆゑに一巻と名づく。 ゆゑに「仏説無量寿観経一巻」といふ。 これすなはちその名義を釈しをはりぬ。

三、宗旨門

【10】 三に宗旨の不同、教の大小を弁釈すとは、『維摩経』のごときは不思議解脱をもつて宗となし、『大品経』のごときは空慧をもつて宗となす。 この例一にあらず。

念観両宗(一経両宗)

いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。 一心に回願して浄土に往生するをとなす。

教の大小

【11】 教の大小といふは、問ひていはく、この『経』は二蔵のなかにはいづれの蔵の摂なる。 二教のなかにはいづれの教の収なる。
答へていはく、いまこの『観経』は菩薩蔵の収なり。 頓教の摂なり。

四、説人門

【12】 四に説人の差別を弁ずとは、おほよそ諸経の起説五種を過ぎず。
一には仏の説、
二には聖弟子の説、
三には天仙の説、
四には鬼神の説、
五には変化説なり。
いまこの『観経』はこれ仏の自説なり。

 問ひていはく、仏いづれの処にかましまして説き、何人のためにか説きたまへる。

答へていはく、仏王宮にましまして、韋提等のために説きたまへり。

五、定散門

【13】 五に定散両門料簡するにすなはちその六あり。
一には能請のひとを明かす、すなはちこれ韋提なり。
二には所請のひとを明かす、すなはちこれ世尊なり。
三には能説のひとを明かす、すなはちこれ如来なり。
四には所説を明かす、すなはちこれ定散二善十六観門なり。
五には能為を明かす、すなはちこれ如来なり。
六には所為を明かす、すなはち韋提等これなり。

定善料簡

【14】 問ひていはく、定散二善はたれの致請による。

唯請定善 自開散善

答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。

 問ひていはく、いぶかし、定散二善は出でていづれの文にかある。 いますでに教備はりて虚しからず、いづれの機か受くることを得る。

答へていはく、解するに二義あり。

受化の機

一には謗法と無信と、八難および非人、これらは受けず。 これすなはち朽林・碩石、生潤の期あるべからず。 これらの衆生はかならず受化の義なし。 これを除きて以外は、一心に信楽して往生を求願すれば、上一形尽し下十念を収む。 仏の願力に乗じてみな往かざるはなし。 これすなはち上のいづれの機か受くることを得るの義を答へをはりぬ。

二には出でていづれの文にかあるとはすなはちありあり。 「通」といふはすなはち三義の不同あり。

通請所求

なんとなれば、一には「韋提白仏唯願為我広説無憂悩処」よりは、すなはちこれ韋提、心を標してみづからために通じて所求を請ふ。
二には「唯願仏日教我観於清浄業処」よりは、すなはちこれ韋提みづからために通じて去行を請ふ。

三には「世尊光台現国」よりは、すなはちこれ前の通請の「為我広説」の言に酬ゆ。

三義の不同ありといへども、前の通を答へをはりぬ。 「別」といふはすなはち二義あり。

別選所求

一には「韋提白仏我今楽生極楽世界弥陀仏所」よりは、すなはちこれ韋提みづからために別して所求を選ぶ。
二には「唯願教我思惟教我正受」よりは、すなはちこれ韋提みづからために別行を修せんと請ふ。 二義の不同ありといへども、上の別を答へをはりぬ。

 これより以下は、次に定散両門の義を答ふ。

定善・散善

 問ひていはく、いかなるをか定善と名づけ、いかなるをか散善と名づくる。

答へていはく、日観より下十三観に至るこのかたを名づけて定善となし、三福・九品を名づけて散善となす。

 問ひていはく、定善のなかになんの差別かある、出でていづれの文にかある。

答へていはく、いづれの文にか出づるといふは、『経』(観経)に「教我思惟教我正受」とのたまへり、すなはちこれその文なり。 差別といふはすなはち二義あり。 一にはいはく思惟、二にはいはく正受なり。

思惟正受

「思惟」といふはすなはちこれ観の前方便なり。 かの国の依正二報総別の相を思想す。 すなはち地観の文(観経)のなかに説きて、「かくのごとく想ふものを名づけてほぼ極楽国土を見るとなす」とのたまへり。 すなはち上の「教我思惟」の一句に合す。

「正受」といふは、想心すべて息み、縁慮並び亡じて、三昧相応するを名づけて正受となす。 すなはち地観の文のなかに説きて、「もし三昧を得れば、かの国地を見ること了々分明なり」とのたまへり。 すなはち上の「教我正受」の一句に合す。 定散に二義の不同ありといへども、総じて上の問を答へをはりぬ。

諸師不同

【15】 また向よりこのかたの解は諸師と不同なり。 諸師は思惟の一句をもつて、もつて三福・九品に合して、もつて散善となし、正受の一句、もつて通じて十六観に合して、もつて定善となす。 かくのごとき解はまさに謂ふにしからず。

なんとなれば、『華厳経』(意)に、「思惟正受とはただこれ三昧の異名なり」と説きたまふがごときは、この地観の文と同じ。 この文をもつて証す、あに散善に通ずることを得んや。 また向よりこのかた、韋提上には請ひて、ただ「教我観於清浄業処」といひ、次下にはまた請ひて「教我思惟正受」といへり。 二請ありといへども、ただこれ定善なり。
また散善の文はすべて請へる処なし。 ただこれ仏の自開なり。 次下の散善縁のなかに説きて、「亦令未来世一切凡夫」といへる以下はすなはちこれその文なり。

六、和会門

【16】 六に経論の相違を和会するに、広く問答を施して疑情を釈去すとは、この門のなかにつきてすなはちその六あり。
一には先づもろもろの法師につきて九品の義を解す。
二にはすなはち道理をもつて来してこれを破す。
三にはかさねて九品を挙げて返対してこれを破す。
四には文を出し来して、さだめて凡夫のためにして聖人のためにせずといふことを証す。
五には別時の意会通す。
六には二乗種不生の義を会通す。

諸師九品義

【17】 初めに諸師の解といふは、先づ上輩の三人を挙ぐ。
上が上といふは、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり。 なんがゆゑぞ知ることを得る。 かしこに到りてすなはち無生忍を得るによるがゆゑなり。
上が中とは、これ初地より四地に至るこのかたの菩薩なり。 なんがゆゑぞ知ることを得る。 かしこに到りて一小劫を経て無生忍を得るによるがゆゑなり。 上が下とは、これ種性以上より初地に至るこのかたの菩薩なり。 なんがゆゑぞ知ることを得る。 かしこに到りて三小劫を経てはじめて初地に入るによるがゆゑなり。 この三品の人はみなこれ大乗の聖人の生ずる位なり。

次に中輩の三人を挙げば、諸師のいはく、中が上とはこれ三果の人なり。 なにをもつてか知ることを得る。 かしこに到りてすなはち羅漢を得るによるがゆゑなり。 中が中とはこれ内凡なり。 なにをもつてか知ることを得る。 かしこに到りて須陀洹を得るによるがゆゑなり。
中が下とはこれ世善の凡夫にして、苦を厭ひて生ずることを求む。 なにをもつてか知ることを得る。 かしこに到りて一小劫を経て羅漢果を得るによるがゆゑなり。 この三品はただこれ小乗の聖人等なり。

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。

道理破

【18】 第二にすなはち道理をもつて来し破すとは、上に「初地より七地に至るこのかたの菩薩」といはば、『華厳経』(意)に説きたまふがごとく、「初地以上七地以来は、すなはちこれ法性生身変易生身なり。 これらはかつて分段の苦なし。 その功用を論ずれば、すでに二大阿僧祇劫を経て、ならべて福・智を修し、人法両ながら空ず、ならびにこれ不可思議なり。 神通自在にして転変無方なり。 身は報土に居してつねに報仏の説法を聞き、十方を悲化して須臾に遍満す」と。 さらに何事を憂へてかすなはち韋提のそれがために仏に請ずるによりて安楽国に生ずることを求めんや。 この文をもつて証するに、諸師の所説あに錯りにあらずや。 上の二を答へをはりぬ。

上が下とは、上に「種性より初地に至るこのかた」といふは、いまだかならずしもしからず。 経に説きたまふがごとく、「これらの菩薩を名づけて不退となす。 身は生死に居して、生死のために染せられず。 鵝鴨の水にあるに、水湿すことあたはざるがごとし」と。
『大品経』に説きたまふがごとし。 「この位のなかの菩薩は、二種の真の善知識の守護を得るによるがゆゑに不退なり。 なんとなれば、一にはこれ十方の諸仏、二にはこれ十方の諸大菩薩、つねに三業をもつてほかに加してもろもろの善法において退失あることなし。 ゆゑに不退の位と名づく。 これらの菩薩もまたよく八相成道して衆生を教化す。 その功行を論ずれば、すでに一大阿僧祇劫を経て、ならべて福・智等を修す」と。
すでにこの勝徳あり。 さらに何事を憂へてかすなはち韋提の請によりて生ずることを求めんや。 この文をもつて証す。 ゆゑに知りぬ、諸師の所判還りて錯りとなる。 これ上輩を責めをはりぬ。

次に中輩の三人を責めば、諸師のいはく、「中が上とはこれ三果のひとなり」と。 しかるにこれらの人は三塗永く絶え、四趣生ぜず。 現在に罪業を造るといへども、必定して来報を招かず。 仏説きて、「この四果の人は、われと同じく解脱の床に坐す」とのたまふがごとし。
すでにこの功力あり。 さらにまたなにを憂へてかすなはち韋提の請によりて生路を求めんや。

諸仏大悲於苦者

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。 この文をもつて証す。 ゆゑに知りぬ、諸師の所判の義、前の錯りに同じ。 以下知るべし。

返対破

上輩生

【19】 第三にかさねて九品を挙げて返対して破すとは、諸師のいふ、「上品上生の人は、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「三種の衆生まさに往生を得べし。 何者をか三となす。

一にはただよく戒を持ち慈を修す。 二には戒を持ち慈を修することあたはざれども、ただよく大乗を読誦す。 三には戒を持ち経を読むことあたはざれども、ただよく仏法僧等を念ず
この三人おのおのおのが業をもつて専精に意を励まして、一日一夜、乃至七日七夜相続して断ぜず、おのおの所作の業を回して往生を求願す。 命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と光を放ち手を授けて、弾指のあひだのごとくにすなはちかの国に生ず」と。

この文をもつて証するに、まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し、なんぞ判じて上聖に同ずることを得んや。 しかるに四地より七地以来の菩薩は、その功用を論ずるに不可思議なり。 あに一日七日の善によりて、華台授手迎接せられて往生せんや。 これすなはち上が上を返対しをはりぬ。

次に上が中を対せば、諸師のいふ、「これ初地より四地以来の菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「必ずしも大乗を受持せず」と。 いかんが「不必」と名づくる。 あるいは読み読まず、ゆゑに不必と名づく。 ただ善解といひていまだその行を論ぜず。

またのたまはく(観経・意)、「深く因果を信じ大乗を謗らず、この善根をもつて回して往生を願ず。 命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と一時に手を授けてすなはちかの国に生ず」と。 この文をもつて証するに、またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして終時の迎候に異なることあらしむることを致す。
しかるに初地より四地以来の菩薩は、その功用を論ずるに、『華厳経』に説きたまふがごとし。 すなはちこれ不可思議なり。 あに韋提の請を致すによりて、まさに往生を得んや。 上が中を返対しをはりぬ。

次に上が下を対せば、諸師のいふ、「これ種性以上初地に至るこのかたの菩薩なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』にのたまはく、「亦因果を信ず」と。 いかんが「亦信」なる。 あるいは信じ信ぜず、ゆゑに名づけて亦となす。
またのたまはく(同)、「大乗を謗らず、ただ無上道心を発す」と。 ただこの一句、もつて正業となす。 さらに余善なし。 「この一行を回して往生を求願す。 命終らんと欲する時、阿弥陀仏および化仏・菩薩大衆と一時に手を授けてすなはち往生を得」(同・意)と。

この文をもつて証するに、ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして去時の迎候に異なることあらしむることを致す。 もしこの位のなかの菩薩の力勢を論ぜば、十方浄土に意に随ひて往生す。 あに韋提それがために仏に請じて、勧めて西方極楽国に生ぜしむるによらんや。 上が下を返対しをはりぬ。

すなはちこの三品は去時に異なることあり。 いかんが異なる。 上が上の去時は、仏、無数の化仏と一時に手を授く。 上が中の去時は、仏、千の化仏と一時に手を授く。 上が下の去時は、仏、五百の化仏と一時に手を授く。 ただこれ業に強弱ありて、この差別あらしむることを致すのみ。

中輩生

次に中輩の三人を対せば、諸師のいふ、「中が上とはこれ小乗の三果のひとなり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、五戒・八戒を受持し、もろもろの戒を修行して五逆を造らず、もろもろの過患なからんに、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、比丘聖衆と光を放ち法を説きて、来りてその前に現じたまふ。 この人見をはりてすなはち往生を得」と。 この文をもつて証するに、またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。 なんぞ小聖ならんや。

中が中といふは、諸師のいふ、「見道以前の内凡なり」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「一日一夜の戒を受持して、回して往生を願ず。 命終らんと欲する時、仏を見たてまつりてすなはち往生を得」と。 この文をもつて証するに、あにこれ内凡の人といふことを得んや。
ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。 仏の願力をもつてすなはち生ずることを得。 もし小聖を論ぜば、去ることまた妨げなし。

為凡の経

ただこの『観経』は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず。

中が下といふは、諸師のいふ、「小乗の内凡以前の世俗の凡夫、ただ世福を修して出離を求む」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜんに、命終らんと欲する時、善知識の、ためにかの仏の国土の楽事、四十八願等を説くに遇ふ。 この人聞きをはりてすなはちかの国に生ず」と。

この文をもつて証するに、ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。 ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。 またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

下輩生

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。 なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

なにをもつてか知ることを得る。 下が上の文に説くがごとし。 「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。 命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。 その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。 ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。 もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。 もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

下が中とは、「この人先に仏の戒を受く。 受けをはりて持たずしてすなはち毀破す。 また常住僧物・現前僧物を偸み、不浄説法して、乃至、一念慚愧の心あることなし。 命終らんと欲する時、地獄の猛火一時にともに至りて、現じてその前にあり。 火を見る時に当りて、すなはち善知識の、ためにかの仏国土の功徳を説きて、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人聞きをはりてすなはち仏を見たてまつり、に随ひて往生す」(観経・意)と。 初め善に遇はざれば獄火来迎し、後に善に逢ふがゆゑに化仏来迎す。 これすなはちみなこれ弥陀願力のゆゑなり。

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」(同・意)と。 この人もしに遇はずは、必定して下沈すべし。 終りに善に遇ふによりて七宝来迎す

またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。 ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、九品をして差別せしむることを致す。
なんとなれば、上品の三人はこれに遇へる凡夫、中品の三人はこれに遇へる凡夫、下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。 悪業をもつてのゆゑなり。 終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。 かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。 なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。
もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

いまもつて一々に文を出し顕証して、いまの時の善悪の凡夫をして同じく九品に沾はしめんと欲す。 信を生じて疑なければ、仏の願力に乗じてことごとく生ずることを得。

出門顕証

為凡の経

【20】 第四に文を出して顕証すとは、問ひていはく、上来返対の義、いかんが知ることを得る。 「世尊さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」といふは、いぶかし、ただ人情をもつて準へ義するや、はたまた聖教ありて来し証するや。

答へていはく、衆生は重くして智慧浅近なり。 聖意は弘深なり。 あにいづくんぞみづからほしいままにせんや。
いま一々にことごとく仏説を取りて、もつて明証となさん。この証のなかにつきてすなはちその十句あり。

なんとなれば、第一には『観経』にのたまふがごとし。 「仏、韋提に告げたまはく、〈われいまなんぢがために広くもろもろの譬へを説かん。 また未来世の一切凡夫の浄業を修せんと欲するものをして、西方極楽国土に生ずることを得しめん〉」とはこれその一の証なり。

には「如来いま未来世の一切衆生の煩悩の賊のために害せらるるもののために清浄の業を説く」とのたまふは、これその二の証なり。

には「如来いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西方極楽世界を観ぜしめん」とのたまふは、これその三の証なり。

には「韋提、仏にまうさく、〈われいま仏力によるがゆゑにかの国土を見る。 もし仏滅後のもろもろの衆生等は、濁悪不善にして五苦に逼められん、いかんがまさにかの仏の国土を見たてまつるべき〉」とのたまふは、これその四の証なり。

には日観の初めにのたまふがごとし。 「仏、韋提に告げたまはく、〈なんぢおよび衆生、念をもつぱらにせよ〉」といふより以下、すなはち「一切衆生生盲にあらざるよりは有目の徒日を見よ」といふに至るこのかたは、これその五の証なり。

には地観のなかに説きてのたまふがごとし。 「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢ、仏語を持ち、未来世の一切衆生の苦を脱れんと欲するもののために、この観地の法を説け〉」といふは、これその六の証なり。

には華座観のなかに説きてのたまふがごとし。 「韋提、仏にまうさく、〈われ仏力によりて阿弥陀仏および二菩薩(観音・勢至)を見たてまつることを得たり、未来の衆生はいかんが見たてまつることを得ん〉」といふは、これその七の証なり。

には次下に、請に答ふるなかに説きてのたまはく、「仏、韋提に告げたまはく、〈なんぢおよび衆生、かの仏を観ぜんと欲するもの、まさに想念を起すべし〉」といふは、これその八の証なり。

には像観のなかに説きてのたまふがごとし。 「仏、韋提に告げたまはく、〈諸仏如来は一切衆生の心想のうちに入りたまふ。 このゆゑになんぢら心に仏(阿弥陀仏)を想ふ時〉」といふは、これその九の証なり。

には九品のなかに一々に説きて、「もろもろの衆生のためにす」といふがごときは、これその十の証なり。

上来十句の不同ありといへども、如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。 この文をもつて証するに、あにこれ謬りならんや。

別時意会通

成仏別時意

【21】 第五に別時意を会通すといふはすなはちその二あり。
一には『論』(摂大乗論・意)にいはく、「人、多宝仏を念ずれば、すなはち無上菩提において退堕せざることを得るがごとし」とは、おほよそ「菩提」といふはすなはちこれ仏果の名なり、またこれ正報なり。 道理として成仏の法は、かならずすべからく万行円かに備へてまさにすなはち剋成すべし。 あに念仏の一行をもつてせんや。 すなはち成ずることを望まば、この処あることなからん。 いまだ証せずといふといへども、万行のなかにこれその一行なり。

なにをもつてか知ることを得る。 『華厳経』(意)に説きたまふがごとし。 「功徳雲比丘善財に語りていはく、〈われ仏法三昧海のなかにおいて、ただ一行を知れり。 いはゆる念仏三昧なり〉」と。 この文をもつて証するに、あに一行にあらずや。 これ一行なりといへども、生死のなかにおいてすなはち成仏に至るまで永く退没せず。 ゆゑに「不堕」と名づく。

 問ひていはく、もししからば、『法華経』にのたまはく、「一たび〈南無仏〉と称すれば、みなすでに仏道を成ず」と。 また成仏しをはるべし。 この二文なんの差別かある。

答へていはく、『論』(摂大乗論)のなかの称仏は、ただみづから仏果を成ぜんと欲す。 『経』(法華経)のなかの称仏は、九十五種の外道に簡異せんがためなり。 しかるに外道のなかにはすべて称仏の人なし。 ただ仏を称すること一口すれば、すなはち仏道のなかにありて摂す。 ゆゑに「已竟」といふと。

往生別時意

【22】 二には『論』(摂大乗論・意)のなかに説きていはく、「人ありてただ発願するによりて安楽土に生ずるがごとし」とは、久しきよりこのかた、通論の家、論の意を会せずして、錯りて下品下生の十声の称仏を引きて、これと相似せしめて、いまだすなはち生ずることを得ずといふ。
一金銭の千を成ずることを得るは、多日にしてすなはち得。 一日にすなはち千を成ずることを得るにはあらざるがごとし。 十声の称仏もまたかくのごとし。 ただ遠生のために因となる。 このゆゑにいまだすなはち生ずることを得ず。
仏ただ当来の凡夫のために悪を捨て仏を称せしめんと欲して、誑言して生ずとのたまふ、実にはいまだ生ずることを得ず、名づけて別時意となすといはば、なんがゆゑぞ、『阿弥陀経』(意)にのたまはく、「仏、舎利弗に告げたまはく、〈もし善男子・善女人ありて阿弥陀仏を説くを聞かば、すなはち名号を執持すべし。 一日乃至七日一心に生ぜんと願ずれば、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と迎接して、往生せしめたまふ〉」と。

次下に(同・意)、「十方におのおの恒河沙等のごとき諸仏、おのおの広長の舌相を出してあまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。 〈なんぢら衆生みな、この一切諸仏の護念したまふところの経を信ずべし〉」と。 「護念」といふは、すなはちこれ上の文の一日乃至七日仏の名を称するなり。 いますでにこの聖教ありてもつて明証となす。

いぶかし、今時の一切の行者、知らずなんの意ぞ、凡小の論にすなはち信受を加へ、諸仏の誠言を返りてまさに妄語せんとする。 苦しきかな、なんぞ劇しくよくかくのごとき不忍の言を出す。
しかりといへども、仰ぎ願はくは一切の往生せんと欲する知識等、よくみづから思量せよ。 むしろ今世の錯りを傷りて仏語を信ぜよ。 菩薩の論を執して、もつて指南となすべからず。 もしこの執によらば、すなはちこれみづから失し他を誤らん。

願行具足

 問ひていはく、いかんが行を起せるを、しかも往生を得ずといふ。

答へていはく、もし往生せんと欲せば、かならずすべからく行願具足すべし。 まさに生ずることを得べし。 いまこの『論』(摂大乗論)のなかには、ただ「発願」といひて、行ありと論ぜず。

 問ひていはく、なんがゆゑぞ論ぜざる。

答へていはく、すなはち一念に至るまでかつていまだ心を措かず。 このゆゑに論ぜず。

 問ひていはく、願行の義になんの差別かある。

答へていはく、経のなかに説きたまふがごとし。 ただその行のみあるは、行すなはち孤にしてまた至るところなし。 ただその願のみあるは、願すなはち虚しくしてまた至るところなし。 かならずすべからく願行あひ扶けて所為みな剋すべしと。 このゆゑにいまこの『論』(同)のなかには、ただ「発願」といひて、行ありと論ぜず。 このゆゑにいまだすなはち生ずることを得ず。 遠生のために因となるといふは、その義実なり。

 問ひていはく、願の意いかんぞ、すなはち生ぜずといふ。

答へていはく、他の説きて、「西方は快楽不可思議なり」といふを聞きて、すなはち願をなしていはく、「われもまた願はくは生ぜん」と。 この語をいひをはりてさらに相続せず。 ゆゑに願と名づく。

六字釈

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。

「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

成仏と往生

【23】 また『論』(摂大乗論)のなかに「多宝仏を称してために仏果を求むる」とは、すなはちこれ正報にして、下に「ただ発願して浄土に生ぜんと求むる」とは、すなはちこれ依報なり。 一は正、一は依、あに相似することを得んや。 しかるに正報は期しがたし。 一行なりといへどもいまだ剋せず。 依報は求めやすけれども、一願の心をもつてはいまだ入らざる所なり。

しかりといへども、たとへば辺方化に投ずるはすなはち易く、主となることはすなはち難きがごとし。 今時の往生を願ずるものは、ならびにこれ一切化に投ずる衆生なり。 あに易きにあらずや。 ただよく上一形を尽し下十念に至るまで、仏の願力をもつてみな往かざるはなし。 ゆゑに易と名づく。 これすなはち言をもつて義を定むべからず。 取りて信ずるもの、疑を懐けばなり。 かならず聖教を引きて来し明かし、これを聞くものをしてまさによく惑ひを遣らしめんと欲す。

二乗種不生

是報非化

【24】 第六に二乗種不生の義を会通すとは、

問ひていはく、弥陀の浄国ははたこれ報なりやこれ化なりや。

答へていはく、これ報にして化にあらず。 いかんが知ることを得る。
『大乗同性経』(意)に説きたまふがごとし。 「西方安楽の阿弥陀仏はこれ報仏・報土なり」と。 また『無量寿経』(上・意)にのたまはく、「法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。

一々の願にのたまわく

一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。 いますでに成仏したまへり。 すなはちこれ酬因の身なり。

また『観経』(意)のなかの上輩の三人、命終の時に臨みて、みな「阿弥陀仏および化仏と与にこの人を来迎す」とのたまへり。 しかるに報身、化を兼ねてともに来りて手を授く。 ゆゑに名づけて「与」となす。 この文をもつて証す。 ゆゑに知りぬ、これ報なり。 しかるに報・応の二身眼目の異名なり。
前には「報」を翻じて応となし、後には「応」を翻じて報となす。 おほよそ報といふは因行虚しからず、さだめて来果を招く。 果をもつて因に応ず、ゆゑに名づけて報となす。 また三大僧祇の所修の万行、必定して応じて菩提を得。 いますでに道成ぜり、すなはちこれ応身なり。 これすなはち過・現の諸仏に三身を弁立す。 これを除きて以外さらに別の体なし。 たとひ無窮の八相・名号塵沙なるも、体を剋して論ずれば、すべて化に帰して摂す。 いまかの弥陀は現にこれ報なり。

 問ひていはく、すでに報といはば、報身は常住にして永く生滅なし。 なんがゆゑぞ、『観音授記経』(意)に、「阿弥陀仏また入涅槃の時あり」と説きたまふ。 この一義いかんが通釈せん。

答へていはく、入・不入の義はただこれ諸仏の境界なり。 なほ三乗浅智の闚ふところにあらず、あにいはんや小凡たやすくよく知らんや。
しかりといへども、かならず知らんと欲せば、あへて仏経を引きてもつて明証となさん。

なんとなれば、『大品経』の「涅槃非化品」(意)のなかに説きてのたまふがごとし。
「仏、須菩提に告げたまはく、〈なんぢが意においていかん。 もし化人ありて化人をなす、この化すこぶる実事にして、空ならざるものありやいなや〉と。
須菩提まうさく、〈いななり、世尊〉と。
仏、須菩提に告げたまはく、〈色すなはちこれ化なり。受・想・行・識すなはちこれ化なり。 乃至一切種智すなはちこれ化なり〉と。
須菩提、仏にまうしてまうさく、〈世尊、もし世間の法これ化なり、出世間の法もまたこれ化ならば、いはゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分・三解脱門・仏の十力・四無所畏・四無礙智・十八不共法、ならびに諸法の果および賢聖人、いはゆる須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏世尊、この法またこれ化なりやいなや〉と。
仏、須菩提に告げたまはく、〈一切の法みなこれ化なり。 この法のなかにおいて声聞法の変化あり、辟支仏法の変化あり、菩薩法の変化あり、諸仏法の変化あり、煩悩法の変化あり、業因縁法の変化あり。 この因縁をもつてのゆゑに、須菩提、一切の法はみなこれ化なり〉と。
須菩提、仏にまうしてまうさく、〈世尊、このもろもろの煩悩断の、いはゆる須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果、辟支仏道の、もろもろの煩悩のを断ぜるも、みなこれ変化なりやいなや〉と。
仏、須菩提に告げたまはく、〈もし法の生滅の相あるは、みなこれ変化なり〉と。
須菩提まうさく、〈世尊、なんらの法か変化にあらざる〉と。
仏のたまはく、〈もし法の無生無滅なる、これ変化にあらず〉と。
須菩提まうさく、〈なんらかこれ不生不滅にして変化にあらざる〉と。
仏のたまはく、〈誑相なき涅槃、この法のみ変化にあらず〉と。

〈世尊、仏のみづから説きたまふがごときは、諸法は平等にして声聞の作にあらず、辟支仏の作にあらず、諸菩薩摩訶薩の作にあらず、諸仏の作にあらず。 有仏無仏、諸法のはつねに空なり。 性空すなはちこれ涅槃なり。 いかんが涅槃の一法のみ化のごとくにあらざる〉と。

仏、須菩提に告げたまはく、〈かくのごとしかくのごとし。 諸法は平等にして声聞の所作にあらず。 乃至性空すなはちこれ涅槃なり。
もし新発意の菩薩、この一切の法はみな畢竟じて性空なり、乃至涅槃もまたみな化のごとしと聞かば、心すなはち驚怖せん。 この新発意の菩薩のために、ことさらに生滅のものは化のごとく、不生不滅のものは化のごとくにはあらずと分別するなり〉」と。

いますでにこの聖教をもつてあきらかに知りぬ、弥陀はさだめてこれ報なることを。 たとひ後に涅槃に入るとも、その義妨げなし。 もろもろの有智のもの知るべし。

凡夫入報

【25】 問ひていはく、かの仏および土すでに報といはば、報法は高妙にして、小聖すら階ひがたし。 垢障の凡夫いかんが入ることを得ん。

答へていはく、もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。 まさしく仏願に託してもつて強縁となすによりて、五乗をして斉しく入らしむることを致す。

 問ひていはく、もし凡夫・小聖生ずることを得といはば、なんがゆゑぞ、天親の『浄土論』に、「女人および根欠、二乗の種生ぜず」といへる。 いまかの国のなかに現に二乗あり。 かくのごとき論教、いかんが消釈せん。

答へていはく、なんぢただその文を誦して理を闚はず、いはんや加ふるに封拙懐迷をもつてすれば、啓悟するに由なし。 いま仏教を引きてもつて明証となして、なんぢが疑情を却けん。
なんとなれば、すなはち『観経』の下輩の三人これなり。 なにをもつてか知ることを得る。 下品上生にのたまふがごとし。
「あるいは衆生ありて、多く悪法を造りて慚愧あることなし。 かくのごとき愚人命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて阿弥陀仏を称せしむるに遇ふ。 仏を称する時に当りて化仏・菩薩現じてその前にまします。 金光・華蓋迎へてかの土に還る。 華開以後、観音、ために大乗を説きたまふ。 この人聞きをはりてすなはち無上道心を発す」(観経・意)と。

 問ひていはく、種と心となんの差別かある。

答へていはく、ただ便を取りていふのみ、義は差別なし。 華開くる時に当りて、この人身器清浄にして、まさしく法を聞くに堪へたり。
また大小簡ばず、ただ聞くことを得ればすなはち信を生ず。
ここをもつて観音、ために小を説かず、先づために大を説きたまふ。 大を聞きて歓喜してすなはち無上道心を発す。 すなはち大乗の種生ずと名づけ、また大乗の心生ずと名づく。 また華開くる時に当りて、観音、先づために小乗を説きたまはば、小を聞きて信を生ぜん。 すなはち二乗の種生ずと名づけ、また二乗の心生ずと名づけん。 この品(下品上生)すでにしかなり、下の二もまたしかなり。
この三品の人はともにかしこにありて発心す。 まさしく大を聞くによりてすなはち大乗の種生ず。 小を聞かざるによるがゆゑに、ゆゑに二乗の種生ぜず。 おほよそ種といふはすなはちこれその心なり。 上来二乗種不生の義を解しをはりぬ。 女人および根欠の義はかしこになきがゆゑに、知るべし。

また十方の衆生、小乗の戒行を修して往生を願ずるもの、一も妨礙なくことごとく往生を得。 ただかしこに到りて先づ小果を証す。 証しをはりてすなはち転じてに向かふ。 一たび転じて大に向かひて以去、さらに退して二乗の心を生ぜず。 ゆゑに二乗種不生と名づく。 前の解は不定の始めに就き、後の解は小果の終りに就く、知るべし。

七、得益門

韋提得忍

【26】 第七に韋提、仏の正説を聞きてを得る分斉を料簡すとは、問ひていはく、韋提すでにを得といふ。 いぶかし、いづれの時にか忍を得たる、出でていづれの文にかある。

答へていはく、韋提の得忍は、出でて第七観の初めにあり。 『経』(観経・意)にのたまはく、「仏、韋提に告げたまはく、〈仏まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし〉と。
この語を説きたまふ時、無量寿仏空中に住立したまふ。 観音・勢至左右に侍立したまへり。 時に韋提、時に応じて見たてまつることを得て、接足作礼し歓喜讃歎してすなはち無生法忍を得」と。 なにをもつてか知ることを得る。 下の利益分のなかに説きてのたまふがごとし。
「仏身および二菩薩(観音・勢至)を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じ、未曾有なりと歎ず。 廓然として大悟して無生忍を得」(観経)と。 これ光台のなかに国を見し時得たるにはあらず。

 問ひていはく、上の文のなかに説きてのたまはく(観経)、「かの国土の極妙の楽事を見れば、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得」と。 この一義いかんが通釈せん。

答へていはく、かくのごとき義は、ただこれ世尊、前の別請に酬いて、利益を挙勧したまへる方便の由序なり。 なにをもつてか知ることを得る。 次下の文のなかに説きてのたまはく(同)、「諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しめたまふ」と。
次下の日想・水想・氷想よりすなはち十三観に至るこのかたをことごとく異の方便と名づく。 衆生をしてこの観門において一々に成ずることを得て、かの妙事を見て心歓喜するがゆゑに、すなはち無生を得しめんと欲す。 これすなはちただこれ如来末代を慈哀して、挙勧して修することを励まし、積学のものをして遺りなく、聖力冥に加して現益あらしめんと欲するがゆゑなり。

決証

【27】 証していはく、掌に機糸を握ること十有三結、条々理に順じて、もつて玄門に応じをはりぬ。 この義周りて三たび前の証を呈すものなり。

 上来七段の不同ありといへども、総じてこれ文前の玄義なり。 経論の相違妨難を料簡するに、一々に教を引きて証明す。 信ずるものをして疑なく、求むるものをして滞りなからしめんと欲す、知るべし。





観経玄義分 巻第一