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「疑情」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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疑とは猶予不定をいう。迷いを超える仏教の理(ことわり)に対して、猶予して決定しない精神の作用のことである。自らの想念によって心がためらい、仏教の真理に対して決定的に思い切ることができないこと疑をいう。<br />
 
疑とは猶予不定をいう。迷いを超える仏教の理(ことわり)に対して、猶予して決定しない精神の作用のことである。自らの想念によって心がためらい、仏教の真理に対して決定的に思い切ることができないこと疑をいう。<br />
これは煩悩の異名である[[五蓋]]の中の[[疑蓋]]に相当する。親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、至心・信楽・欲生をそれぞれ疑蓋無雑(ぎがいむぞう)とされたのはこれに基づく。あらゆるものを救済するという阿弥陀如来の本願力を疑い、自らが拵えた疑いの蓋で遮蔽していることを疑というのである。
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これは煩悩の異名である[[五蓋]]の中の[[疑蓋]]に相当する。親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、至心・信楽・欲生をそれぞれ疑蓋無雑(ぎがいむぞう)とされたのはこれに基づく。あらゆるものを救済するという阿弥陀如来の本願力を疑い、自らが拵えた疑いの蓋を雑えで遮蔽していることを疑というのである。

2012年7月3日 (火) 08:03時点における版

ぎじょう

 阿弥陀仏本願を疑いはからう心。(行巻 P.207, 浄文 P.489,愚禿上 P.504,高僧 P.597,正信大意 P.1038)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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疑とは猶予不定をいう。迷いを超える仏教の理(ことわり)に対して、猶予して決定しない精神の作用のことである。自らの想念によって心がためらい、仏教の真理に対して決定的に思い切ることができないこと疑をいう。
これは煩悩の異名である五蓋の中の疑蓋に相当する。親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、至心・信楽・欲生をそれぞれ疑蓋無雑(ぎがいむぞう)とされたのはこれに基づく。あらゆるものを救済するという阿弥陀如来の本願力を疑い、自らが拵えた疑いの蓋を雑えで遮蔽していることを疑というのである。