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「信知」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:〈信〉といふは金剛心なり、〈知〉といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。 ([[一多#no21|一多 P.686]])
 
:〈信〉といふは金剛心なり、〈知〉といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。 ([[一多#no21|一多 P.686]])
 
とある。<br>
 
とある。<br>
『往生礼讃』では、深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。この信心を「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。<br>
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『往生礼讃』では、深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。<br>
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御開山は、この真実の信心を「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。<br>
 
これは信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種の深信をあらわされているのである。ともあれ信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)
 
これは信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種の深信をあらわされているのである。ともあれ信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)
  

2013年10月4日 (金) 21:59時点における版

しん-ち

信じ知ること。

阿弥陀仏の教法(本願)を聞いて、我を救う阿弥陀仏の本願力を信じ、自己の罪障と自力無効を知ること。

『一念多念証文』では善導大師の『往生礼讃』、深信釈(*)の「信知」を引かれて、

如来のちかひを信知すと申すこころなり。
〈信〉といふは金剛心なり、〈知〉といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。 (一多 P.686)

とある。
『往生礼讃』では、深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。
御開山は、この真実の信心を「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。
これは信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種の深信をあらわされているのである。ともあれ信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)


蛇足
近年、浄土真宗の信心を、自覚という言葉で表現する僧俗が多い。元来、自覚という言葉は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」(*)とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている自覚とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、他力の信心の表現として濫用すべきではない。善導大師が「信知」という言葉を示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。 以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。


(32)
本願円頓一乗は
 逆悪摂すと信知して
 煩悩・菩提体無二
 すみやかにとくさとらしむ (曇鸞讃

(73)
煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ (善導讃