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「如来蔵」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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① すべての衆生の煩悩の中に覆われ蔵されている、本来清らかな(自性清浄なる)如来法身のこと。如来蔵は煩悩中にあっても煩悩に汚されることがなく、本来清浄で永遠に不変なさとりの本性である。染浄(けがれたものと、きよらかなもの)の全ての現象が如来蔵から縁起したと説くのを如来蔵縁起という。<br>
 
① すべての衆生の煩悩の中に覆われ蔵されている、本来清らかな(自性清浄なる)如来法身のこと。如来蔵は煩悩中にあっても煩悩に汚されることがなく、本来清浄で永遠に不変なさとりの本性である。染浄(けがれたものと、きよらかなもの)の全ての現象が如来蔵から縁起したと説くのを如来蔵縁起という。<br>
 
『勝鬘経』法身章には「如来の法身の煩悩蔵を離れざるを如来蔵と名づく」とあり、『如来蔵経』には九喩を挙げて解説している。<br>
 
『勝鬘経』法身章には「如来の法身の煩悩蔵を離れざるを如来蔵と名づく」とあり、『如来蔵経』には九喩を挙げて解説している。<br>
『仏性論』巻二には蔵に三義があり、(1) すべての衆生はことごとく如来の智の内に摂められ(所摂)、(2) 如来の法身は因位・果位を通じて変らないが衆生にあっては煩悩に覆いかくされており(隠覆)、(3) 如来の果徳はことごとく凡夫の心中に摂まっている(能摂)から如来蔵というとし、また同所に蔵には自性・因・至徳・真実・秘密の五義があり、(1) 万有は如来の自性に他ならないという自性の義から如来蔵と名づけ、(2) この蔵は聖人が行じて正法を生ずる対境、境界となるという因の義から正法蔵(法界蔵)、(3) この蔵を信ずることによって如来法身の果徳を得るという至徳の義から法身蔵、(4) この蔵は世間の虚偽を超えた真実であるとの義から出世蔵(出世間上上蔵)、(5) 一切法がこの蔵に順ずれば清浄となり、違すれば染濁となるという秘密の義から自性清浄蔵と名づけるとし、以上の五名(括弧内は『勝鬘経』自性清浄章の名目)を五種蔵という。<br>
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『仏性論』巻二には蔵に三義があり、
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:(1) すべての衆生はことごとく如来の智の内に摂められ(所摂)、
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:(2) 如来の法身は因位・果位を通じて変らないが衆生にあっては煩悩に覆いかくされており(隠覆)、
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:(3) 如来の果徳はことごとく凡夫の心中に摂まっている(能摂)から如来蔵というとし、<br />
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また同所に蔵には自性・因・至徳・真実・秘密の五義があり、
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:(1) 万有は如来の自性に他ならないという自性の義から如来蔵と名づけ、
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:(2) この蔵は聖人が行じて正法を生ずる対境、境界となるという因の義から正法蔵(法界蔵)、
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:(3) この蔵を信ずることによって如来法身の果徳を得るという至徳の義から法身蔵、
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:(4) この蔵は世間の虚偽を超えた真実であるとの義から出世蔵(出世間上上蔵)、
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:(5) 一切法がこの蔵に順ずれば清浄となり、違すれば染濁となるという秘密の義から自性清浄蔵と名づけるとし、以上の五名(括弧内は『勝鬘経』自性清浄章の名目)を五種蔵という。<br>
 
なお『大乗止観法門』巻一には能蔵・所蔵・能生の三義、『円覚経略疏』巻上には隠覆・含摂・出生の三義を挙げて三種如来蔵という。<br>
 
なお『大乗止観法門』巻一には能蔵・所蔵・能生の三義、『円覚経略疏』巻上には隠覆・含摂・出生の三義を挙げて三種如来蔵という。<br>
 
如来蔵には、それが煩悩を超え離れ、煩悩と別異であって、煩悩が空であるという面、即ち空如来蔵と、それが一切法を具えて煩悩と不離不脱不異であるという面、即ち不空如来蔵との二如来蔵があり(『勝鬘経』空義隠覆真実章)、また煩悩にまつわられた在纏の位態(空と不空との二如来蔵を含む)と、煩悩から離脱した出纏の位態とがある(同経法身章)。<br>
 
如来蔵には、それが煩悩を超え離れ、煩悩と別異であって、煩悩が空であるという面、即ち空如来蔵と、それが一切法を具えて煩悩と不離不脱不異であるという面、即ち不空如来蔵との二如来蔵があり(『勝鬘経』空義隠覆真実章)、また煩悩にまつわられた在纏の位態(空と不空との二如来蔵を含む)と、煩悩から離脱した出纏の位態とがある(同経法身章)。<br>
 
『大乗起信論』に、真如に如実空と如実不空との二面があるとし、覚の体相を四鏡に喩えて、如実空鏡(空如来蔵)・因薫習鏡(不空如来蔵)・法出離鏡・縁薫習鏡とする(前二は在纏、後二は出纏)のもこの説である。<br>
 
『大乗起信論』に、真如に如実空と如実不空との二面があるとし、覚の体相を四鏡に喩えて、如実空鏡(空如来蔵)・因薫習鏡(不空如来蔵)・法出離鏡・縁薫習鏡とする(前二は在纏、後二は出纏)のもこの説である。<br>
なお、『釈摩訶衍論』巻二には以上の諸説をまとめて十種如来蔵を立てている。即ち大総持如来蔵・遠転遠縛如来蔵・与行与相如来蔵・真如真如如来蔵・生滅真如如来蔵・空如来蔵・不空如来蔵・能摂如来蔵・所摂如来蔵・隠覆如来蔵の一O。<br>
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なお、『釈摩訶衍論』巻二には以上の諸説をまとめて十種如来蔵を立てている。即ち大総持如来蔵・遠転遠縛如来蔵・与行与相如来蔵・真如真如如来蔵・生滅真如如来蔵・空如来蔵・不空如来蔵・能摂如来蔵・所摂如来蔵・隠覆如来蔵の一0。<br>
如来蔵は阿頼耶識や、または阿摩羅識らと同一視されることがあり、例えば『入榜伽経』巻七に「阿梨耶識をば如来蔵と名づく。而も無明七識と共に倶なり」といい、また同経巻七に「如来蔵識は阿頼耶識中に在らず。是の故に七種の識は生あり減あり。如来蔵識は不生不滅なり」(この場合の如来蔵識は阿摩羅識)と説くようなものである。如来蔵思想は、インドにおいて唯識説に少し先立つ時期に成立したもののようで、中観・唯識の思想とは別系であるが、後には唯識説と別立せず、その領域内で行われていたらしい。中国にあっては地論宗がこの説を究極の拠り所として浄識縁起説を立てている。なお、天台宗では如来蔵がそのまま実相であり、不可思議の妙法であるとし、華厳宗では法蔵の『起信論義記』巻上に四宗を立てて第四を如来蔵縁起宗と名づけて、榜伽・密厳などの経、起信・宝性などの論をこれにあて、五教判における終教と見なしている。また密教の胎蔵界曼茶羅の説は如来蔵思想から来たもののようである。
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如来蔵は阿頼耶識や、または阿摩羅識らと同一視されることがあり、例えば『入楞伽経』巻七に「阿梨耶識をば如来蔵と名づく。而も無明七識と共に倶なり」といい、また同経巻七に「如来蔵識は阿頼耶識中に在らず。是の故に七種の識は生あり滅あり。如来蔵識は不生不滅なり」(この場合の如来蔵識は阿摩羅識)と説くようなものである。如来蔵思想は、インドにおいて唯識説に少し先立つ時期に成立したもののようで、中観・唯識の思想とは別系であるが、後には唯識説と別立せず、その領域内で行われていたらしい。中国にあっては地論宗がこの説を究極の拠り所として浄識縁起説を立てている。なお、天台宗では如来蔵がそのまま実相であり、不可思議の妙法であるとし、華厳宗では法蔵の『起信論義記』巻上に四宗を立てて第四を如来蔵縁起宗と名づけて、楞伽・密厳などの経、起信・宝性などの論をこれにあて、五教判における終教と見なしている。また密教の胎蔵界曼茶羅の説は如来蔵思想から来たもののようである。
  
 
②如来が説いた教法のこと。如来所説の法蔵の意。「仏教学辞典」
 
②如来が説いた教法のこと。如来所説の法蔵の意。「仏教学辞典」

2018年1月7日 (日) 19:40時点における版

梵語タターガタ・ガルバ (tathāgata-garbha) の訳。
① すべての衆生の煩悩の中に覆われ蔵されている、本来清らかな(自性清浄なる)如来法身のこと。如来蔵は煩悩中にあっても煩悩に汚されることがなく、本来清浄で永遠に不変なさとりの本性である。染浄(けがれたものと、きよらかなもの)の全ての現象が如来蔵から縁起したと説くのを如来蔵縁起という。
『勝鬘経』法身章には「如来の法身の煩悩蔵を離れざるを如来蔵と名づく」とあり、『如来蔵経』には九喩を挙げて解説している。
『仏性論』巻二には蔵に三義があり、

(1) すべての衆生はことごとく如来の智の内に摂められ(所摂)、
(2) 如来の法身は因位・果位を通じて変らないが衆生にあっては煩悩に覆いかくされており(隠覆)、
(3) 如来の果徳はことごとく凡夫の心中に摂まっている(能摂)から如来蔵というとし、

また同所に蔵には自性・因・至徳・真実・秘密の五義があり、

(1) 万有は如来の自性に他ならないという自性の義から如来蔵と名づけ、
(2) この蔵は聖人が行じて正法を生ずる対境、境界となるという因の義から正法蔵(法界蔵)、
(3) この蔵を信ずることによって如来法身の果徳を得るという至徳の義から法身蔵、
(4) この蔵は世間の虚偽を超えた真実であるとの義から出世蔵(出世間上上蔵)、
(5) 一切法がこの蔵に順ずれば清浄となり、違すれば染濁となるという秘密の義から自性清浄蔵と名づけるとし、以上の五名(括弧内は『勝鬘経』自性清浄章の名目)を五種蔵という。

なお『大乗止観法門』巻一には能蔵・所蔵・能生の三義、『円覚経略疏』巻上には隠覆・含摂・出生の三義を挙げて三種如来蔵という。
如来蔵には、それが煩悩を超え離れ、煩悩と別異であって、煩悩が空であるという面、即ち空如来蔵と、それが一切法を具えて煩悩と不離不脱不異であるという面、即ち不空如来蔵との二如来蔵があり(『勝鬘経』空義隠覆真実章)、また煩悩にまつわられた在纏の位態(空と不空との二如来蔵を含む)と、煩悩から離脱した出纏の位態とがある(同経法身章)。
『大乗起信論』に、真如に如実空と如実不空との二面があるとし、覚の体相を四鏡に喩えて、如実空鏡(空如来蔵)・因薫習鏡(不空如来蔵)・法出離鏡・縁薫習鏡とする(前二は在纏、後二は出纏)のもこの説である。
なお、『釈摩訶衍論』巻二には以上の諸説をまとめて十種如来蔵を立てている。即ち大総持如来蔵・遠転遠縛如来蔵・与行与相如来蔵・真如真如如来蔵・生滅真如如来蔵・空如来蔵・不空如来蔵・能摂如来蔵・所摂如来蔵・隠覆如来蔵の一0。
如来蔵は阿頼耶識や、または阿摩羅識らと同一視されることがあり、例えば『入楞伽経』巻七に「阿梨耶識をば如来蔵と名づく。而も無明七識と共に倶なり」といい、また同経巻七に「如来蔵識は阿頼耶識中に在らず。是の故に七種の識は生あり滅あり。如来蔵識は不生不滅なり」(この場合の如来蔵識は阿摩羅識)と説くようなものである。如来蔵思想は、インドにおいて唯識説に少し先立つ時期に成立したもののようで、中観・唯識の思想とは別系であるが、後には唯識説と別立せず、その領域内で行われていたらしい。中国にあっては地論宗がこの説を究極の拠り所として浄識縁起説を立てている。なお、天台宗では如来蔵がそのまま実相であり、不可思議の妙法であるとし、華厳宗では法蔵の『起信論義記』巻上に四宗を立てて第四を如来蔵縁起宗と名づけて、楞伽・密厳などの経、起信・宝性などの論をこれにあて、五教判における終教と見なしている。また密教の胎蔵界曼茶羅の説は如来蔵思想から来たもののようである。

②如来が説いた教法のこと。如来所説の法蔵の意。「仏教学辞典」