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「南無」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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  梵語ナマス(namas)の音写。帰命(きみょう)と漢訳する。仏・法・僧の三宝に帰順し、敬礼する意。→[[帰命]]きみょう。
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 梵語ナマス(namas)の音写。<kana>帰命(きみょう)</kana>と漢訳する。仏・法・僧の三宝に帰順し、敬礼する意。→<kana>[[帰命]](きみょう)</kana>。
  
 
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梵語のナマス(namas)の音を、シナではナマスの発音を漢字に割り当てて南無と漢字語で表現したので、孤立語を特徴とする漢字としての南の字にも無の字にも意味はない。<br />
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善導は『観経疏』に於いて、
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:「南無阿弥陀仏」といふは、またこれ西国(印度)の正音なり。<br />
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:また「南」はこれ帰、「無」はこれ命、「阿」はこれ無、「弥」はこれ量、「陀」はこれ寿、「仏」はこれ覚なり。 ゆゑに「帰命無量寿覚」といふ。 これすなはち梵漢相対するに、その義かくのごとし。 いま「無量寿」といふはこれ法、「覚」とはこれ人なり。 人法並べ彰す、ゆゑに阿弥陀仏と名づく。
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と、帰命無量寿覚と漢字語でその意味を示して下さった。この南無を「[[帰命]]」と漢語にすることによってシナでは帰命の「帰」と「命」のそれぞれの語義解釈をするようになったのである。→[[帰命]]<br />
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この帰命の語は、本来は衆生の真摯な願いを表す語であり、真摯な求道者であった法然聖人は、
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: しかる間、歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみて聖教に向かいて、手ずからこれを披きてこれを見るに、善導和尚の観経の疏に、「'''<kana>一心専念弥陀名号(いっしんせんねん-みだみょうごう)</kana> <kana>行住坐臥(ぎょうじゅう-ざが)</kana> <kana>不問時節久近(ふもん-じせつくごん)</kana> <kana>念念不捨者(ねんねん-ふしゃしゃ)</kana> <kana>是名正定之業(ぜみょう-しょうじょうしごう)</kana> <kana>順彼仏願故(じゅんぴ-ぶつがんこ)</kana>'''(一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに)」といえる文を見得ての後、我等ごときの無智の身はひとえにこの文を仰ぎ、もっぱらこの理を憑み、念念不捨の称名を修して決定往生の業因に備ふれば、ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず、また厚く弥陀の弘願に順ず、'''順彼仏願故'''(かの仏願に順ずるがゆゑに)の文、たましいに染み心に留むるのみ。
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と、衆生の南無から阿弥陀仏の南無=帰命の意に逆転されたのであった。この意を正確に受容され浄土真宗として展開されたのが親鸞聖人(御開山)であった。
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2018年5月27日 (日) 17:39時点における版

なも

 梵語ナマス(namas)の音写。帰命(きみょう)と漢訳する。仏・法・僧の三宝に帰順し、敬礼する意。→帰命(きみょう)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

梵語のナマス(namas)の音を、シナではナマスの発音を漢字に割り当てて南無と漢字語で表現したので、孤立語を特徴とする漢字としての南の字にも無の字にも意味はない。
善導は『観経疏』に於いて、

「南無阿弥陀仏」といふは、またこれ西国(印度)の正音なり。
また「南」はこれ帰、「無」はこれ命、「阿」はこれ無、「弥」はこれ量、「陀」はこれ寿、「仏」はこれ覚なり。 ゆゑに「帰命無量寿覚」といふ。 これすなはち梵漢相対するに、その義かくのごとし。 いま「無量寿」といふはこれ法、「覚」とはこれ人なり。 人法並べ彰す、ゆゑに阿弥陀仏と名づく。

と、帰命無量寿覚と漢字語でその意味を示して下さった。この南無を「帰命」と漢語にすることによってシナでは帰命の「帰」と「命」のそれぞれの語義解釈をするようになったのである。→帰命
この帰命の語は、本来は衆生の真摯な願いを表す語であり、真摯な求道者であった法然聖人は、

 しかる間、歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみて聖教に向かいて、手ずからこれを披きてこれを見るに、善導和尚の観経の疏に、「一心専念弥陀名号(いっしんせんねん-みだみょうごう) 行住坐臥(ぎょうじゅう-ざが) 不問時節久近(ふもん-じせつくごん) 念念不捨者(ねんねん-ふしゃしゃ) 是名正定之業(ぜみょう-しょうじょうしごう) 順彼仏願故(じゅんぴ-ぶつがんこ)(一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに)」といえる文を見得ての後、我等ごときの無智の身はひとえにこの文を仰ぎ、もっぱらこの理を憑み、念念不捨の称名を修して決定往生の業因に備ふれば、ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず、また厚く弥陀の弘願に順ず、順彼仏願故(かの仏願に順ずるがゆゑに)の文、たましいに染み心に留むるのみ。

と、衆生の南無から阿弥陀仏の南無=帰命の意に逆転されたのであった。この意を正確に受容され浄土真宗として展開されたのが親鸞聖人(御開山)であった。


WikiPediaから転送

ナマステの動作

ナマステ (サンスクリット: नमस्ते, namaste) は、インドネパールで交わされる挨拶の言葉である。会ったときだけでなく、別れの挨拶もナマステである。

フォーマルな形にナマスカール (नमस्कार namaskār) がある。

通常、ヒンドゥー教徒・仏教徒・ジャイナ教徒の間で交わされる。イスラム教徒の挨拶はアッサラーム・アライクム (As-Salāmu `Alaykum)、シーク教徒の挨拶はサティ・シュリー・アカーラ (Sati Śrī Akāla) が一般的である。

語源

ナマス (namas) + テ (te) と分解できる。 また、サンスクリットの"e"は常に長母音であるため、正確な発音は「ナマステー」である[1]

ナマスは敬礼服従するという意味で、テは「あなたに」の意味である[注 1]

ナマスは、次に続く語により、「namo(ナモー)」、「namaḥ(ナマハ)」等に変化する。

仏教では帰依という意味で使われ、漢訳仏典では「namo」は「南無(ナム)」や「那謨(ナモ)」、「namaḥ」は「曩莫(ナウマク)」や「南麼(ナウマク)」等と音写される。

動作

この挨拶をするときは、合掌の前で両手を合わせること)し、多くの場合は軽くお辞儀をする。

仏教と共に、ほとんど同じ動作がインド文化圏の外に広がった。タイではインド同様に挨拶でおこなわれ、ワイと呼ばれる(ただし挨拶の言葉はサワッディーである)。日本でも仏前でなされる。

脚注

注釈

  1. ^ これは附帯辞の場合であるため、英語などの目的語のように用いることはできない。

出典

  1. ^ 辻直四郎『サンスクリット文法』岩波書店岩波全書 280〉、1974年。全国書誌番号:75028510 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ナマステに関するカテゴリがあります。