南無
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
なも
梵語ナマス(namas)の音写。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
梵語のナマス(namas)の音を、シナではナマスの発音を漢字に割り当てて南無と漢字語で表現(音写)したので、孤立語を特徴とする漢字としての南の字にも無の字にも意味はない。なお無は「説文解字」には、亡也。從亡無聲。とありモの発音が近いのだが、真宗大谷派ではムの音を採用してナムとしている。
善導大師は『観経疏』に於いて、
- 「南無阿弥陀仏」といふは、またこれ西国(印度)の正音なり。
- また「南」はこれ帰、「無」はこれ命、「阿」はこれ無、「弥」はこれ量、「陀」はこれ寿、「仏」はこれ覚なり。 ゆゑに「帰命無量寿覚」といふ。 これすなはち梵漢相対するに、その義かくのごとし。 いま「無量寿」といふはこれ法、「覚」とはこれ人なり。 人法並べ彰す、ゆゑに阿弥陀仏と名づく。 (玄義分 P.301)
と、帰命無量寿覚と漢字語でその意味を示して下さった。この南無を「帰命」と漢語にすることによってシナでは帰命の「帰」と「命」のそれぞれの語義解釈をするようになったのである。→帰命
この帰命の語は、本来は衆生の真摯な願いを表す語であり、真摯な求道者であった法然聖人は、
- しかる間、歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみて聖教に向かいて、手ずからこれを披きてこれを見るに、善導和尚の観経の疏に、「
一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故 (一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに)」といえる文を見得ての後、我等ごときの無智の身はひとえにこの文を仰ぎ、もっぱらこの理を憑み、念念不捨の称名を修して決定往生の業因に備ふれば、ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず、また厚く弥陀の弘願に順ず、順彼仏願故(かの仏願に順ずるがゆゑに)の文、たましいに染み心に留むるのみ。 →「法然聖人における回心の構造」
と、衆生の南無から阿弥陀仏の南無=帰命の意に逆転されたのであった。この「順彼仏願故」の意を正確に受容され、それを本願力回向の浄土真宗として展開されたのが親鸞聖人(御開山)であった。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:南無
なむ/南無
帰依すること、信を捧げること。「南無~」の形で用いて「~に帰依する」ことを表す。Ⓢnamasの音写語。那謨・南謨とも音写され、帰依・帰命などと意訳される。Ⓢnamasは頭を下げる、お辞儀をするの意味であるが、善導が『観経疏』において「『南無』と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義」(聖典二・一八二/浄全二・一〇上~下)と釈すように、尊いものへの信頼や敬意を表す語でもある。現代のヒンディー語では、「こんにちは」を「ナマステー(namaste)」というが、これは直訳すると「あなたに(te)帰依する(namas)」の意であり、南無(namas)の語が現代インドにおいても息づいていることが理解できる。
【執筆者:石田一裕】
- WikiPediaから転送
南無(なむ、なも)とは、敬意、尊敬、崇敬をあらわすサンスクリット語の間投詞「ナモ(नम namo)」を音写した漢訳仏教語であり「那謨」とも音写される[1]。「ナモ」は、「ナマハ(नमः namaḥ)」の語末が連声(サンディ)によって変化した形であり、「ナマハ」には「曩莫・南麼(なうまく)」という音写が与えられる。また、音写ではなく意味を取って「帰命」と訳されることもある。一般に帰依の同義語として使われる。
ヒンディー語での用例
ナマステー
ナマステー(नमस्ते)は、「ナマス(namas 礼します) + テー(te あなたに対して)」(teは二人称単数与格の附帯辞、また子音tの前に来るために連声によってnamaḥの語末がsとなっている)というサンスクリット語句(貴方に敬礼します)に由来し、ヒンディー語では「こんにちは・さようなら」「ありがとう」といった日常の挨拶言葉として用いられる(日本語の「どうも」ほど軽々しくはないが機能としてはそれに近い)。「帰命」という漢訳から連想されるような強く宗教的な意味で使用されているわけでは必ずしもない。ヒンドゥー教徒・仏教徒・ジャイナ教徒の間で使われ、イスラム教徒やシーク教徒は通常使わない。
ナマスカール
ナマスカール(नमस्कार)は、ナマステーの丁寧な形であり、年長者や尊敬すべき相手に対して、また宗教的文脈に於いて、特に用いられる。
仏教での用例
浄土教
浄土教においては南無は「おまかせいたします」という信仰対象への自己の帰投、または信仰告白を意味する。
名号
浄土宗及び多くの浄土真宗系列宗派では阿弥陀仏に南無を付けて南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ、浄土真宗本願寺派ではなもあみだぶつ)と称える。
時宗では南無阿弥陀仏(なもあみだぶ)と唱えさえすれば、往生できるとされる。
日蓮宗では南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)と唱える。
日蓮正宗では題目は(なんみょうほうれんげきょう)と唱える。
真言宗では南無(または、南無大師)遍照金剛(へんじょうこんごう)と唱える。
禅宗では南無本師釈迦如来大和尚(ほんすしきゃじらいだいおしょう)、南無本師釈迦牟尼如来(ほんししゃかむににょらい)と唱えることがある。
中国、台湾の仏教では「南無」をそれぞれ「拼音: 、ナーモー」[2]、「拼音: 、ナーモー」[3]と読ませ、現代中国語の通常の漢字音「nán」、「wú」とは異なる特殊音となっている。唱える時は「南無阿彌陀」か「阿彌陀佛」の形で用いられることが多い。
南無三
南無三(なむさん)とは、仏教で南無三宝(なむさんぽう)の略。三宝とは仏、法、僧のこと。咄嗟の危難に対して助けを乞うまじないとして使用されることもある。
脚注
- ^ 同様の機能を持つ間投詞としては、日本語の「万歳」、英語の "hail" 、ドイツ語の "Heil" 、ラテン語の"ave" を挙げることができる。
- ^ 李行健 編、『「通用規範漢字表」使用手册』、p57、2013年、北京、人民出版社
- ^ “教育部重編國語辭典 南無”. 中華民國教育部 (2014年). 2016年1月24日閲覧。
関連項目