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「清浄願往生の心」の版間の差分

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しょうじょう-がんおうじょうのしん
 
しょうじょう-がんおうじょうのしん
  
 如来回向の信心のこと。 ([[信巻本#P--225|信巻P.225]])
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 如来回向の信心のこと。 ([[信巻本#合喩|信巻P.225]])
 
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御開山は『愚禿鈔』で、願往生心を、
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:「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。([[愚禿下#P--537|愚禿下P.537]])
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とされておられた。それは「欲生釈」で、
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:次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。([[信巻本#P--241|信巻 P.241]])
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と、本願の[[招喚]]ということを示されていた。世俗の論理に埋没して願うべき安養の浄土を知らない輩(林遊)に願うべき浄土を示す言葉が「清浄願往生心」であった。
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[[Category:追記]]

2018年3月8日 (木) 00:01時点における版

しょうじょう-がんおうじょうのしん

 如来回向の信心のこと。 (信巻P.225)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は『愚禿鈔』で、願往生心を、

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。(愚禿下P.537)

とされておられた。それは「欲生釈」で、

次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。(信巻 P.241)

と、本願の招喚ということを示されていた。世俗の論理に埋没して願うべき安養の浄土を知らない輩(林遊)に願うべき浄土を示す言葉が「清浄願往生心」であった。