「もし菩薩の…」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | 親鸞聖人の『<kana>顕浄土真実(けんじょうどしんじつ)</kana> | + | 親鸞聖人の『<kana>顕浄土真実(けんじょうどしんじつ) </kana><kana>教行証(きょうぎょうしょう)</kana><kana>文類(もんるい)</kana>』 の末尾は、この『<kana>華厳経(けごんぎょう)</kana>』 の偈で結ばれている。 ([[往生要集下巻 (七祖)#P--1178|要集 P.1178]],[[化巻末#P--474|化巻 P.474]]) |
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− | + | 『[[往生要集]]』では、『往生要集』の造由を、 | |
:問ふ。 行人みづからかのもろもろの文を学すべし。 なんがゆゑぞ、いま労しくこの文(往生要集)を著すや。 | :問ふ。 行人みづからかのもろもろの文を学すべし。 なんがゆゑぞ、いま労しくこの文(往生要集)を著すや。 | ||
:答ふ。あに前にいはずや。 予がごときものは、広文を披きがたし。 ゆゑにいささかにその要を抄すと。 | :答ふ。あに前にいはずや。 予がごときものは、広文を披きがたし。 ゆゑにいささかにその要を抄すと。 | ||
− | :問ふ。 | + | :問ふ。 『大集経』(意)にのたまはく、「あるいは経法を抄写するに、文字を{{DotUL|洗脱}}し、あるいは他の法を{{DotUL|損壊}}し、あるいは他の経を{{DotUL|闇蔵}}す。 この業縁によりて、いま盲の報を得たり」と。 {云々} |
:しかるをいま経論を抄するに、あるいは多くの文を略し、あるいは前後を乱る。 これ生盲の因なるべし。 なんぞ自害することをなさんや。 | :しかるをいま経論を抄するに、あるいは多くの文を略し、あるいは前後を乱る。 これ生盲の因なるべし。 なんぞ自害することをなさんや。 | ||
− | :答ふ。天竺(印度)・震旦(中国)の論師・人師、経論の文を引くに、多く略して意を取る。 ゆゑに知りぬ、経の旨を錯乱するはこれ盲の因たるも、文字を省略するはこれ盲の因にあらず。 いはんや、いま抄するところは、多くは正文を引き、あるいはこれ諸師の所出の文なり。 | + | :答ふ。天竺(印度)・震旦(中国)の論師・人師、経論の文を引くに、多く略して意を取る。 ゆゑに知りぬ、経の旨を錯乱するはこれ盲の因たるも、文字を省略するはこれ盲の因にあらず。 いはんや、いま抄するところは、多くは正文を引き、あるいはこれ諸師の所出の文なり。 繁文を出すことあたはざるものに至りては、注して、あるいは「'''乃至'''」といひ、あるいは「'''略抄'''」といひ、あるいは「'''取意'''」といへり。 これすなはち学者をして本文を勘へやすからしめんと欲してなり。 |
:問ふ。 引くところの正文はまことに信を生ずべし。 ただしばしばわたくしの詞を加す。 いかんぞ人の謗りを招かざらんや。 | :問ふ。 引くところの正文はまことに信を生ずべし。 ただしばしばわたくしの詞を加す。 いかんぞ人の謗りを招かざらんや。 | ||
:答ふ。正文にあらずといへども、理をば失せず。 もしなほ謬ることあらば、いやしくもこれを執せず。 見るもの、取捨して正理に順ぜしめよ。 もしひとへに謗りをなさば、またあへて辞せず。 『華厳経』の偈にのたまふがごとし。 | :答ふ。正文にあらずといへども、理をば失せず。 もしなほ謬ることあらば、いやしくもこれを執せず。 見るもの、取捨して正理に順ぜしめよ。 もしひとへに謗りをなさば、またあへて辞せず。 『華厳経』の偈にのたまふがごとし。 |
2018年8月4日 (土) 02:16時点における版
もしぼさつの
親鸞聖人の『
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『往生要集』では、『往生要集』の造由を、
- 問ふ。 行人みづからかのもろもろの文を学すべし。 なんがゆゑぞ、いま労しくこの文(往生要集)を著すや。
- 答ふ。あに前にいはずや。 予がごときものは、広文を披きがたし。 ゆゑにいささかにその要を抄すと。
- 問ふ。 『大集経』(意)にのたまはく、「あるいは経法を抄写するに、文字を洗脱し、あるいは他の法を損壊し、あるいは他の経を闇蔵す。 この業縁によりて、いま盲の報を得たり」と。 {云々}
- しかるをいま経論を抄するに、あるいは多くの文を略し、あるいは前後を乱る。 これ生盲の因なるべし。 なんぞ自害することをなさんや。
- 答ふ。天竺(印度)・震旦(中国)の論師・人師、経論の文を引くに、多く略して意を取る。 ゆゑに知りぬ、経の旨を錯乱するはこれ盲の因たるも、文字を省略するはこれ盲の因にあらず。 いはんや、いま抄するところは、多くは正文を引き、あるいはこれ諸師の所出の文なり。 繁文を出すことあたはざるものに至りては、注して、あるいは「乃至」といひ、あるいは「略抄」といひ、あるいは「取意」といへり。 これすなはち学者をして本文を勘へやすからしめんと欲してなり。
- 問ふ。 引くところの正文はまことに信を生ずべし。 ただしばしばわたくしの詞を加す。 いかんぞ人の謗りを招かざらんや。
- 答ふ。正文にあらずといへども、理をば失せず。 もしなほ謬ることあらば、いやしくもこれを執せず。 見るもの、取捨して正理に順ぜしめよ。 もしひとへに謗りをなさば、またあへて辞せず。 『華厳経』の偈にのたまふがごとし。
- 「もし菩薩の、種々の行を修行するを見て、
- 善・不善の心を起すことあるを、菩薩みな摂取す」と。{以上} (往生要集P.1176)
と自問自答されている。御開山は、『教行証文類』の最末尾で、この『往生要集』の『華厳経』の偈文を引くことにより『教行証文類』の造由とされたのであろうか。