往生要集下巻 (七祖)

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往生要集

巻下

   往生要集 巻下

                      天台首楞厳院沙門源信撰

第七 念仏利益

【58】 大文第七に、念仏利益を明かさば、大きに分ちて七あり。 一には滅罪生善、二には冥得護持、三には現身見仏、四には当来勝利、五には弥陀別益、六には引例勧信、七には悪趣利益なり。 その文おのおの多し、いま略して要を挙ぐ。

滅罪生善

【59】 第一に滅罪生善といふは、『観仏経』の第二にのたまはく、「一時のなかにおいて分ちて少分となして、少分のなかによく須臾のあひだも仏の白毫を念じて、心をして了々ならしめ、謬乱の想なく、分明正住にして、意を注くること息まずして白毫を念ずるものは、もしは相好を見、もしは見ることを得ずとも、かくのごとき等の人は、九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の罪を除却せん。

たとひまた人ありて、ただ白毫を聞きて心に驚疑せず、歓喜し信受せん。 この人もまた八十億劫の生死の罪を却けん」と。

またのたまはく(同)、「仏、世を去りたまひて後、三昧正受して仏のを想ふものは、また千劫の極重の悪業を除かん」と。[仏の行歩の相は、上の助念方法門のごとし。]またのたまはく(観仏経)、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢ、今日より如来の語を持ちて、あまねく弟子に告げよ。

仏の滅度の後に、好き形像を造りて、身相をして具足せしめ、また無量の化仏の色像および通身の色を作り、および仏跡を画き、微妙の糸および頗梨珠をもつて白毫の処に安きて、もろもろの衆生をしてこの相を見ることを得しめよ。 ただこの相を見て心に歓喜をなさば、この人は百億那由他恒河沙劫の生死の罪を除却せん〉」と。

またのたまはく(同)、「老女の、仏を見て、邪見にして信ぜざるすら、なほよく八十万億劫の生死の罪を除却しき。 いはんや、また善き意をもつて恭敬し礼拝せんをや」と。 [須達が家の老女の因縁は、かの『経』(同)に広く説くがごとし。]またのたまはく(同)、「もろもろの凡夫および四部の弟子方等経を謗り、五逆罪を作り、四重禁を犯し、僧祇物を偸み、比丘尼を婬し、八戒斎を破り、もろもろの悪事をなし、種々の邪見あらん。 かくのごとき等の人、もしよく心を至して一日一夜、繋念在前して、仏如来の一の相好を観ぜば、もろもろの悪・罪障も、みなことごとく尽滅しなん」と。

またのたまはく(観仏経)、「もしは仏世尊に帰依することあるもの、もしは名を称するものは、百千劫の煩悩の重障を除く。 いかにいはんや、正心に念仏定を修せんをや」と。 『宝積経』の第五にのたまはく、「宝珠あり、種々色と名づく。 大海のなかにあり、無量衆多の駃き流ありて大海に入るといへども、珠火の力をもつて水をして消滅せしめて、盈溢せざらしむるがごとく、かくのごとく如来・正等覚は菩提を証しをはりて、智火の力によりて、よく衆生の煩悩をして消滅せしめたまふことも、またかくのごとし。{乃至}もしまた人ありて、日々のうちにおいて如来の名号功徳を称説せば、このもろもろの衆生はよく黒闇を離れて、漸次にまさにもろもろの煩悩を焼くことを得べし。 かくのごとくして〈南無仏〉と称念するもの、語業空しからじ。 かくのごとき語業を、大炬を執りてよく煩悩を焼くと名づく」と。

『遺日摩尼経』にのたまはく、「菩薩は、また数千巨億万劫、愛欲のなかにありて罪のために覆はれたりといへども、もし仏経を聞きて一反も善を念ずれば、罪すなはち消尽す」と。[以上のもろもろの文は滅罪なり。]

『大悲経』の第二にのたまはく、「もし三千大千世界のなかに満てらん須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢を、もし善男子・善女人ありて、もしは一劫、もしは減一劫、もろもろの種々の称意の一切の楽具をもつて、恭敬し尊重し謙下して供養せん。 もしまた人ありて、諸仏の所にして、ただ一たび掌を合せ、一たび名を称せん。 かくのごとき福徳を、前の福徳に比ぶるに、百分にして一にも及ばず。 百千億分にして一にも及ばず。 迦羅分にして一にも及ばず。 なにをもつてのゆゑに。 仏如来はもろもろの福田のなかに最無上たるをもつてなり。 このゆゑに仏に施するは大功徳を成ず」と。 [略して抄す。三千世界に満てる辟支仏をもつて校量することまたしかり。]『普曜経』の偈にのたまはく、

「一切衆生の、縁覚とならんに、もし供養すること億数劫にして、
飲食・衣服・床臥具、檮香・雑香および名華をもつてすることあらんも、
もし心を一にして十の指を叉へ、心をもつぱらにしてみづから一の如来に
帰したてまつり、
口にみづから言を発して〈南無仏〉といふことあらば、この功徳の福をば
最上なりとなす」と。

『般舟経』に念仏三昧を説く偈にのたまはく、

「たとひ一切みな仏となりて、聖智清浄にして慧第一ならん。
みな億劫よりその数を過ぐすまで、一偈の功徳を講説し、
泥洹に至るまでを誦詠し、無数億劫にことごとく嘆誦すとも、
その功徳を究め尽すことあたはじ。この三昧の一偈の事においてするを、
一切の仏国のあらゆる地、四方四隅および上下の、
なかに満てらん珍宝をもつて布施し、用ゐて仏天中の天に供養せんも、
もしこの三昧を聞くことあるものは、その福祐を得ること、かれに過ぎた
らん。
安諦諷誦し説講するものは、譬へを引くとも功徳喩ふべからず」と。
一仏の刹を破してとなして、一々の塵を取りて、また砕くこと、一仏刹の塵数にお
いてするがごとくして、この一塵をもつて一仏刹となして、そこばくの仏刹の、な
かに満てらん珍宝を諸仏に供養せん。これをもつて比となせり。以上生善。

『度諸仏境界経』に説かく、「もしもろもろの衆生の、如来を縁じて、もろもろの行を生ずるものは、無数劫の地獄・畜生・餓鬼・閻魔王の生を断ず。 もし衆生ありて、一念も作意して如来を縁ずるものは、所得の功徳限極あることなし。 称量すべからず。 百千万億那由他のもろもろの大菩薩の、ことごとく不可思議の解脱定を得んも、計校してその辺際を知ることあたはじ」と。

『観仏経』に、「仏、阿難に告げたまはく、〈われ涅槃しなん後に、諸天・世人、もしわが名を称し、および《南無諸仏》と称せば、獲るところの福徳無量無辺ならん。 いはんやまた繋念して諸仏を念ずるものは、しかももろもろの障礙を滅除せざらんや〉」と。 [以上、滅罪生善。その余は上の正修念仏門のごとし。

冥得護持

【60】 第二に冥得護持といふは、『護身呪経』(意)にのたまはく、「三十六部の神王に、万億恒沙の鬼神ありて眷属となして、三帰を受けたるものを護る」と。 『般舟経』にのたまはく、「劫尽き壊焼する時に、この三昧を持てる菩薩は、たとひこの火のなかに堕つとも、火すなはちために滅しなんこと、たとへば、大きなるの水の、小火を滅するがごとし。 仏、跋陀和に告げたまはく、〈わが語るところは異あることなし。 この菩薩は、この三昧を持てるに、もしは帝王、もしは賊、もしは火、もしは水、もしは竜、もしは蛇、もしは閲叉・鬼神、もしは猛獣、{乃至}もしは人の禅を壊り、人の念を奪ふものも、たとひこの菩薩を中らんと欲せば、つひに中ることあたはじ〉と。

仏ののたまはく、

〈わが語るところのごときは異あることなし。 その宿命をば除きて、その余はよく中るものあることなし〉」と。 偈(般舟経)にのたまはく、

「鬼神・乾陀ともに擁護し、諸天・人民もまたかくのごとくせん。
ならびに阿須輪・摩睺勒も、この三昧を行ぜば、かくのごときことを得ん。
諸天ことごとくともにその徳を頌め、天・人・竜神・甄陀羅
諸仏も、嗟嘆して願のごとくならしめたまはん。経を諷誦し説きて人のた
めにせんがゆゑなり。
国々あひ伐ちて民荒乱し、飢饉しきりに臻りて苦窮を懐くとも、
つひにその命を中夭せじ。よくこの経を誦して人を化するものは、
勇猛にしてもろもろの魔事を降伏し、心に畏るるところなく毛竪たじ。
その功徳行も不可議ならん。この三昧を行ずるものは、かくのごときこと
を得ん」と。[『十住婆沙』に、これらの文を引きをはりていはく、「ただ業報かな
らず受くべきものをば除く」と、云々。

『十二仏名経』の偈にのたまはく、

「もし人、仏の名を持てば、衆魔および波旬、
行住坐臥の処に、その便りを得ることあたはじ」と。

現身見仏

【61】 第三に現身見仏といふは、『文殊般若経』の下巻にのたまはく、「仏ののたまはく、〈もし善男子・善女人、一行三昧に入らんと欲はば、空閑に処してもろもろの乱意を捨て、相貌を取らずして、心を一仏に繋けて、もつぱら名字を称すべし。

仏の方所に随ひて身を端くして正しく向かひて、よく一仏において念々に相続せよ。 すなはち念のうちにおいて、よく過去・未来・現在の諸仏を見たてまつらん〉」と。 導禅師(善導)釈していはく(礼讃・意)、「衆生障重くして、観成就しがたし。 ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただもつぱら名字を称せよと勧めたまふ」と。

『般舟経』にのたまはく、「前に聞かざるところの経巻を、この菩薩、この三昧を持てる威神をもつて、夢のうちにことごとくみづからその経巻を得て、おのおのことごとく見、ことごとく経の声を聞かん。 もし昼日に得ずは、もしは夜、夢のうちにしてことごとく仏を見たてまつることを得ん。 仏、跋陀和に告げたまはく、〈もしは一劫、もしは一劫を過ぎて、われ、この菩薩の、この三昧を持てるものを説き、その功徳を説かんに、尽しをはるべからず。 いかにいはんや、よくこの三昧を求め得たるものをや〉」と。 また同経の偈にのたまはく、

阿弥陀の国の菩薩の、無央数百千の仏を見たてまつるがごとく、
この三昧を得たる菩薩もしかなり。まさに無数百千の仏を見たてまつるべ
し。{乃至}
それこの三昧を誦受することあらば、すでにまのあたり百千の仏を見たて
まつるとなす。
たとひ最後の大恐懼においても、この三昧を持たば畏るるところなから
ん」と。

『念仏三昧経』の第九の偈にのたまはく、

「もしはことごとく一切の仏、現在・未来および十方を見んと欲し、
あるいはまた妙法輪を転ずることを求めんには、また先づこの三昧を修習
せよ」と。

『十二仏名経』の偈にのたまはく、

「もし人よく心を至して、七日仏の名を誦せば、
清浄の眼を得て、よく無量の仏を見たてまつらん」と。

当来勝利

【62】 第四に当来勝利といふは、『華厳』の偈にのたまはく、

「もし如来の小の功徳をも念じ、乃至一念の心にも専仰したてまつらば、
もろもろの悪道の怖れ、ことごとく永く除こり、智眼はここにおいてよく
深く悟れり」と。[智眼天王の頌なり。]

『般舟経』の偈にのたまはく、

「その人つひに地獄に堕せじ。餓鬼道および畜生を離れん。
世々に生るるところにて宿命を識らん。この三昧を学せば、かくのごと
きことを得てん」と。

『観仏経』にのたまはく、「もし衆生ありて、一たびも仏身の、上のごとき功徳・相好・光明を聞かば、億々千劫にも悪道に堕ちず、邪見・雑穢の処に生れず、つねに正見を得て、勤修すること息まざらん。 ただ仏の名を聞くに、かくのごとき福を獲。 いかにいはんや、念を観仏三昧に繋けんをや」と。

『安楽集』(上)にいはく、「『大集経』にのたまはく、〈諸仏、世に出でたまふに、四種の法ありて、衆生を度したまふ。 なんらをか四となす。 一には、口に十二部経を説きたまふ。 すなはちこれ、法施をもつて衆生を度したまふなり。 二には、諸仏如来には無量の光明・相好まします。 一切の衆生、ただよく心を繋けて観察すれば、益を獲ずといふことなし。 すなはちこれ、身業をもつて衆生を度するなり。 三には、無量の徳用・神通道力・種々の神変まします。 すなはちこれ、神通道力をもつて衆生を度するなり。 四には、諸仏如来には無量の名号まします。 もしは、もしはなり。

それ衆生ありて、心を繋けて称念すれば、障を除き、益を獲て、みな仏前に生れずといふことなし。 すなはちこれ、名号をもつて衆生を度するなり〉」と。 {云々}あるがいはく、「『正法念経』にこの文あり」と。 『十二仏名経』の偈にのたまはく、

「もし人、仏の名を持てば、怯弱の心を生ぜず、
智慧ありて諂曲なきは、つねに諸仏の前にあり。
もし人、仏の名を持てば、七宝の華のなかに生ず。
その華千億葉にして、威光の相具足せり」と。[以上諸文、永く悪趣を離れて
浄土に往生するなり。

『観仏経』にのたまはく、「もしよく心を至して、繋念うちにあり、端坐正受して仏の色身を観ぜば、まさに知るべし、この人の心は仏の心のごとくにして、仏と異なることなからん。 煩悩ありといへども、もろもろの悪のために覆蔽せられじ。 未来世に大法の雨を雨らさん」と。

『大集の念仏三昧経』の第七にのたまはく、「まさに知るべし、かくのごとき念仏三昧は、すなはち一切の諸法を総摂することをなす。 このゆゑに、かの声聞・縁覚の二乗の境界にあらず。 もし人、しばらくもこの法を説くを聞かば、この人は当来に決定して仏になること疑あることなからん」と。 第九にのたまはく(同)、「ただよく耳にこの三昧の名を聞かば、たとひ読せず誦せず、受せず持せず、修せず習せず、他のために転ぜず、他のために説かず、また広く分別し釈することあたはずとも、しかもかのもろもろの善男子・善女人、みなまさに次第に阿耨菩提を成就すべし」と。 同偈にのたまはく、

「もしもろもろの妙相を円満し、もろもろの好上の荘厳を具足せんと欲ひ、
および清浄の処に転生することを求めんものは、かならず先づこの三昧
を受持せよ」と。

またある『経』(倶舎論)にのたまはく、

「もし仏の福田において、よく少分の善を殖ゑつれば、
初めには勝善趣を獲、後にはかならず涅槃を得」と。

『大般若経』にのたまはく、「仏を敬ひ憶ふによりて、かならず生死を出でて涅槃に至る。 これを置きて、乃至、仏を供養せんがために、一華をもつて虚空に散ずるもまたかくのごとし。 またこれを置きて、もし善男子・善女人等、下一たび〈南無仏陀大慈悲者〉と称するに至らば、この善男子・善女人等は、生死の際を窮むるまで善根尽くることなくして、天・人のなかにしてつねに富楽を受け、乃至、最後には般涅槃を得ん」と。 [略して抄す。『大悲経』の第二、これに同じ。『宝積経』以下、粗なり。 『宝積経』にのたまはく、「もし衆生ありて、如来の所にして微善を起さば、苦際を尽すまで畢竟じて壊せず」と。 またのたまはく(同)、「もし菩薩ありて、勝意楽をもつてよくわが所において父の想を起さば、かの人はまさに如来の数に入ることを得て、わがごとくにして異なることなからん」と。 『十二仏名経』の偈にのたまはく、

「もし人、仏の名を持たば、世々所生の処に、
身通をもつて虚空に遊び、よく無辺のに至りて、
まのあたり諸仏を覩たてまつりて、よく甚深の義を問ふ。{乃至}
ために微妙の法を説きて、かれに菩提の記を授けたまふ」と。

『法華経』の偈にのたまはく、

「もし人、散乱の心にして、塔廟のなかに入り、
一たび〈南無仏〉と称すれば、みなすでに仏道を成ず」と。

『大悲経』の第三に、「仏、阿難に告げたまはく、〈もし衆生ありて、仏の名を聞かば、われ説かく、《この人は畢定してまさに般涅槃に入ることを得べし》〉」と。 『華厳経』の法幢菩薩の偈にのたまはく、

「もしもろもろの衆生ありて、いまだ菩提心を発さざらんも、
一たび仏の名を聞くことを得ば、決定して菩提を成ぜん」と。[以上のもろ
もろの文、菩提を得ることなり。

ただ名号を聞くすら、勝利かくのごとし。 いはんやしばらくも相好・功徳を観念し、あるいはまた一華・一香を供養せんをや。 いはんや一生に勤修する功徳、つひに虚しからじ。 すなはち知りぬ、仏法に値ひ、仏号を聞くことは、これ少縁にあらず。 このゆゑに『華厳経』の真実慧菩薩の偈にのたまはく、

「むしろ地獄の苦を受くとも、諸仏の名を聞くことを得よ。
無量の楽を受くとも、仏の名を聞かざることなかれ」と。

以上の四の門は、総じて諸仏を念ずる利益を明かす。 そのなかに、『観仏経』には釈迦をもつて首めとなす。 『般舟経』は多く弥陀をもつて首めとなす。 理、実にはともに一切の諸仏に通ず。 『念仏経』は三世の諸仏に通ず。

 問ふ。 『観仏経』にのたまはく、「この人の心は、仏の心のごとくにして、仏と異なることなし」と。 また『観経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈諸仏はこれ法界の身なり、一切衆生の心想のうちに入りたまふ。 このゆゑに、なんぢら心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ三十二相・八十随形好なり。 是の心、仏に作る。 是の心、是仏なり。 諸仏の正遍知海は、心想より生じたまふ〉」と。{以上}この義いかん。

答ふ。

『往生論』(天親の浄土論)の智光の『疏』にこの文を釈していはく、「衆生の心に仏を想ふ時に当りて、仏の身相みな衆生の心のなかに顕現す。

たとへば、水清ければすなはち色像現ず。 しかも水と像とは、一ならず異ならざるがごとし。 ゆゑにいふ、仏の相好の身は、すなはちこれ心想なりと。 〈是心作仏〉とは、心よく仏に作るなり。 〈是心是仏〉とは、心がほかに仏なきなり。 たとへば、火の木より出づれども、木を離るることを得ず、木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼きて火となる。 木を焼けば、すなはちこれ火たるがごとし」と。 {以上}また余の釈あり。 学者さらに勘へよ。 わたくしにいはく、『大集経』の「日蔵分」(意)にのたまはく、「行者、この念をなさく、これらの諸仏は従りて来るところなし。 去りて至るところなし。 ただわが心の作なり。 三界のなかにおいて、この身は因縁なり。 ただこれ心の作なり。 われ、覚観に随ひて、多を欲すれば多を見、少を欲すれば少を見る。 諸仏如来は、すなはちこれわが心なり。 なにをもつてのゆゑに。 心に随ひて見るがゆゑに。 心、すなはちわが身なり。 すなはちこれ虚空なり。 われ、覚観によりて無量の仏を見たてまつる。 われ、覚心をもつて仏を見たてまつり、仏を知る。 心は心を見ず、心は心を知らず。 われ、法界を観ずるに、性、牢固なることなし。 一切の諸仏はみな覚観の因縁より生れたまふ。 このゆゑに、法性はすなはちこれ虚空なり、虚空の性もまたこれ空なり」と。 {以上}この文の意『観経』に同じ。 光師(智光)の釈また違ふことなし。

 問ふ。 心、仏に作ることを知るに、なんの勝利かある。

答ふ。 もしこの理を観ずれば、よく三世の一切の仏法を了す。 乃至、一たびも聞かば、すなはち三途の苦難を解脱することを得。 『華厳経』の如来林菩薩の偈にのたまふがごとし。

「もし人、三世の一切の仏を知らんと欲求せば、
まさにかくのごとく観ずべし。

心もろもろの如来を造る」と。 『華厳の伝』にいはく、「文明元年に、京師の人、姓は王、その名を失せり。 すでに戒行なく、かつて善を修せず。 患によりて死を致す。 二人に引かれて地獄の門の前に至りぬ。 見れば一の僧あり。 これ地蔵菩薩なりといふ。 すなはち王氏に教へて、この一の偈を誦せしむ。 これに謂らひていはく、〈この偈を誦し得ては、よく地獄を排ひてん〉と。 王氏つひに入りて閻羅王に見ゆ。 王、この人に問ふ、〈功徳ありや〉と。 答へていはく、〈ただ一の四句の偈を受持せり〉と。 つぶさに上に説くがごとし。 〔閻羅〕王、つひに〔王氏を〕放勉しつ。 この偈を誦する時に当りて、声の及ぶところの受苦の人はみな解脱することを得つ。 王氏、三日ありてはじめて蘇りぬ。

この偈を憶持して、もろもろの沙門に向かひてこれを説く。 偈の文を示験するに、まさに知りぬ、これ『華厳経』の第十二巻の〈夜摩天宮無量諸菩薩雲集説法品〉なり。 王氏みづから、空観寺の僧定法師に向かひて、説きてしかりといふ」と。 {略抄}

弥陀別益

【63】 第五に弥陀を念ずる別益をいはば、行者をしてその心決定せしめんがためのゆゑに、別にこれを明かす。 [滅罪生善と冥得護持と現身見仏と将来勝利とは、次いでのごとし。 『観経』の像想観に説きてのたまはく、「この観をなすものは、無量億劫の生死の罪を除きて、現身のなかに念仏三昧を得」と。 またのたまはく(同)、「ただ仏(阿弥陀仏)の名・二菩薩(観音・勢至)の名を聞くに、無量劫の生死の罪を除く。 いかにいはんや憶念せんをや」と。 またのたまはく(同)、「ただ仏像を想ふに、無量の福を得。 いはんやまた仏の具足せる身相を観ぜんをや」と。

『阿弥陀思惟経』にのたまはく、「もし転輪王、千万歳のうちに四天下に満てる七宝をもつて十方の諸仏に布施せんも、苾蒭・苾蒭尼・優婆塞・優婆夷等の、一たび弾指するあひだも坐禅して、平等心をもつて一切衆生を憐愍して、阿弥陀仏を念ずる功徳にはしかじ」と。 [以上、滅罪生善。]『称讃浄土経』にのたまはく、「あるいは善男子、あるいは善女人、無量寿の極楽世界の清浄の仏土の功徳荘厳において、もしはすでに願を発し、もしはまさに願を発すべく、もしはいま願を発すは、かならずかくのごとく、十方の面に住したまへる十恒河沙の諸仏世尊の、摂受したまふところたらん。 説のごとく行ずるものは、一切さだめて阿耨菩提において退転せざることを得。 一切さだめて無量寿仏の極楽世界に生れん」と。

『観経』にのたまはく、「光明あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず」と。 またのたまはく(同)、「無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至と、つねにこの行人の所に来至したまふ」と。 『十往生経』(意)に、釈尊、阿弥陀仏の功徳、国土の荘厳等を説きをはりてのたまはく、「清信士・清信女、この経を読誦し、この経を流布し、この経を恭敬し、この経を謗ぜず、この経を信楽し、この経を供養せん。 かくのごとき人の輩は、この信敬によりて、われ、今日よりつねに前の二十五の菩薩をしてこの人を護持せしめ、つねにこの人をして病なく悩みなく、悪鬼・悪神、また中害せず。 またこれを悩まさず、また便りを得ざらしめん」と。[以上乃至、睡寤・行住・所至の処、みなことごとく安穏ならしめん、云々。

唐土(中国)の諸師のいはく、「二十五の菩薩、阿弥陀仏を念じ、往生を願ふものを擁護せん」と。 {云々}これまたかの『経』(十往生経)の意に違はず。 [二十五の菩薩とは、観世音菩薩・大勢至菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・普賢菩薩・法自在菩薩・師子吼菩薩・陀羅尼菩薩・虚空蔵菩薩・徳蔵菩薩・宝蔵菩薩・金蔵菩薩・金剛蔵菩薩・光明王菩薩・山海慧菩薩・華厳王菩薩・衆宝王菩薩・月光王菩薩・日照王菩薩・三昧王菩薩・定自在王菩薩・大自在王菩薩・白象王菩薩・大威徳王菩薩・無辺身菩薩なり。

『双巻経』(大経・上)に、かの仏の本願(第三十七願)にのたまはく、「諸天・人民、わが名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首し礼をなして、歓喜し信楽して、菩薩の行を修せば、諸天・世人、敬を致さずといふことなからん。 もししからずは、正覚を取らじ」と。 [以上、冥得護持。]『大集経』の「賢護分」にのたまはく、「善男子・善女人、端坐繋念し、心をもつぱらにして、かの阿弥陀如来・応供・等正覚を想ひ、かくのごとき相好、かくのごとき威儀、かくのごとき大衆、かくのごとき説法を、聞くがごとく繋念し、一心に相続して次第乱れず、あるいは一日を経、あるいはまた一夜せん。

かくのごとくして、あるいは七日七夜に至るまで、わが所聞のごとく具足して念ぜんがゆゑに、この人、かならず阿弥陀如来・応供・等正覚を覩たてまつらん。 もし昼の時に見たてまつることあたはずは、もしは夜分において、あるいは夢のうちに、阿弥陀仏はかならずまさに現じたまふべし」と。

『観経』にのたまはく、「眉間の白毫を見るものは、八万四千の相好、自然にまさに見つべし。 無量寿仏を見るものは、すなはち十方の無量の諸仏を見たてまつるなり。 十方無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏、現前に授記せん。 これをあまねく一切色相を観ずとなす」と。 [以上見仏。]『鼓音声王経』にのたまはく、「十日十夜、六時に念をもつぱらにし、五体を地に投げてかの仏を礼敬し、堅固正念にしてことごとく散乱を除き、もしはよく心に念じ、念々に絶えずは、十日のうちにかならずかの阿弥陀仏を見たてまつることを得、ならびに十方世界の如来および所住の処を見たてまつらん。 ただ重障・鈍根の人をば除く。 いまの少時において覩たてまつることあたはざるところなり。 一切のもろもろの善をみなことごとく回向して、安楽世界に往生することを得んと願ぜば、終らんとする日に、阿弥陀仏、もろもろの大衆とその人の前に現じて、安喩称善したまはん。 この人、すなはちの時にはなはだ慶悦をなさん。 この因縁をもつて、その所願のごとく、すなはち往生することを得ん」と。

『平等覚経』(三)にのたまはく、「仏ののたまはく、〈かならずまさに斎戒して、一心清浄にして昼夜につねに念じ、無量清浄仏の国に生れんと欲ひて、十日十夜、断絶せざるべし。 われ、みなこれ慈愍して、ことごとく無量清浄仏の国に生ぜしめん〉」と。[乃至、一日一夜もまたかくのごとし。あるいは、この文をもつて下の諸行門のなかに置くべし。 『双巻経』(大経・下)の偈にのたまはく、

「その仏の本願力ありて、名を聞きて往生せんと欲へば、
みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」と。

『観経』の下品上生の人は、命終の時に臨みて、掌を合せ手を叉へて「南無阿弥陀仏」と称すれば、仏の名を称するがゆゑに、五十億劫の生死の罪を除き、化仏の後に従ひて、宝池のなかに生る。 同じき品の中生の人は、命終の時に臨みて、地獄の猛火一時にともに至らんに、弥陀仏の十力威徳、光明神力戒・定・慧・解脱・知見を聞けば、八十億劫の生死の罪を除き、地獄の猛火、化して清涼の風となりて、もろもろの天の華を吹く。 華の上にみな化仏・菩薩ましまして、この人を迎接して、すなはち往生することを得しめたまふ。 同じき品の下生の人は、命終の時に臨みて、苦に逼められて仏を念ずることあたはず。 善友の教に随ひて、ただ心を至して声をして絶えざらしめ、十念を具足して「南無無量寿仏」と称すれば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちに八十億劫の生死の罪を除き、一念のあひだのごときにすなはち往生することを得。

『双巻経』(大経・上)に、かの仏の本願にのたまはく、「〈諸仏の世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずといはば、正覚を取らじ〉(第三十四願)と。 〈他方の国土のもろもろの菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずといはば、正覚を取らじ〉(第四十七願)」と。

『観経』にのたまはく、「もし仏を念ずるものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。 観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友とならん。 まさに道場に坐し、諸仏の家に生るべし」と。 [以上、将来の勝利なり。余は上の別時念仏門のごとし。]

引例勧信

【64】 第六に引例勧信といふは、『観仏経』の第三(意)に、仏、もろもろの釈子に告げてのたまはく、「毘婆尸仏の像法のうちに一の長者ありき、名づけて月徳といひき。 五百の子ありき、同じく重き病に遇へり。 父、子の前に致りて涕涙し合掌して、もろもろの子に語らひていはく、〈なんぢら、邪見にして正法を信ぜず。 いま無常の刀、なんぢが身を截り切むとも、なんの怙むところありとかせん。 仏世尊まします、毘婆尸と名づく。 なんぢ、仏を称すべし〉と。

もろもろの子聞きをはりて、その父を敬ふがゆゑに〈南無仏〉と称しき。 父また告げていはく、〈なんぢ、法を称すべし、なんぢ、僧を称すべし〉と。 いまだ三たび称するに及ばずして、その子命終しき。 仏を称せしをもつてのゆゑに四天王の所に生れき。 天上の寿尽きて、前の邪見の業をもつて大地獄に堕ちき。 獄率羅刹、熱鉄の扠をもつてその眼を刺し壊りき。 この苦を受けし時に、父の長者の教誨せしところの事を憶して、仏を念ぜしをもつてのゆゑに、還りて人中に生じき。 尸棄仏の出でたまへりしに、ただ仏の名を聞きて、仏の形を覩たてまつらざりき。 乃至、迦葉仏の時にもまたその名を聞きき。 六仏の名を聞きし因縁をもつてのゆゑに、われ(釈尊)と同じく生ぜり。

このもろもろの比丘、前世の時に、悪心をもつてのゆゑに仏の正法を謗ぜしも、ただ父のためのゆゑに〈南無仏〉と称せしをもつて、生々につねに諸仏の名を聞くことを得、乃至、今世にわが出でたるに値遇して、もろもろの障除こるがゆゑに阿羅漢となれり」と。

またのたまはく(観仏経・意)、「燃灯仏の末法のうちに一の羅漢ありき。 その千の弟子、羅漢の説を聞きて、心に瞋恨を生じき。 寿の修短に随ひておのおの命終せんと欲せしに、羅漢、教へて〈南無諸仏〉と称せしめき。 すでに仏を称しをはりて忉利天に生ずることを得てき。 {乃至}未来世にまさに仏に作ることを得べし、南無光照と号せん」と。 第七巻(観仏経・意)に、文殊みづから説けり、過去の宝威徳仏に値遇し礼拝せしことを。 「その時に、釈迦文仏讃じてのたまはく、〈善きかな、善きかな。 文殊師利、すなはち昔の時に一たび仏を礼せしがゆゑに、そこばくの無数の諸仏に値ふことを得てき。 いかにいはんや、未来にわがもろもろの弟子の、つとめて仏を観ずるものをや〉と。 仏、阿難に勅したまはく、〈なんぢ、文殊師利の語を持ちて、あまねく大衆および未来世の衆生に告げよ。 もしはよく礼拝するもの、もしはよく仏を念ずるもの、もしはよく仏を観ずるもの、まさに知るべし、この人は、文殊師利と等しくして異なることあることなからん。 身を捨てて、他世に、文殊師利等のもろもろの大菩薩、その和上となりたまはん〉」と。 またのたまはく(同・意)、「時に、十方の仏、来りて跏趺して坐したまへり。

東方の善徳仏、大衆に告げてのたまはく、〈われ、過去の無量世の時を念へば、仏の、世に出でたまへることありき。 宝威徳上王仏と号しき。 時に比丘ありき。 九弟子と仏塔に往詣して、仏像を礼拝しき。 一の宝像の厳顕にして観じつべきを見て、礼しをはりて、あきらかに視て、偈を説きて讃嘆しき。 後の時に命終して、ことごとく東方の宝威徳上王仏の国に生れて、大蓮華のなかに結跏趺坐して、忽然として化生しき。 これより以後、つねに仏に値ふことを得、諸仏の所にして浄く梵行を修し、念仏三昧を得てき。 三昧を得をはりしかば、仏、ために授記したまひき。 《十方の面におのおの仏になることを得ん》と。

東方の善徳仏はすなはちわが身これなり。 東南方の無憂徳仏、南方の栴檀徳仏、西南方の宝施仏、西方の無量明仏、西北方の華徳仏、北方の相徳仏、東北方の三乗行仏、上方の広衆徳仏、下方の明徳仏、かくのごとき十仏は、過去に塔を礼し、像を観じ、一偈をもつて讃嘆せるによりて、いま十方にしておのおの仏になることを得たるなり〉と。 この語を説きをはりて、釈迦文仏を問訊したまふ。 すでに問訊しをはりて、大光明を放ちて、おのおの本国に還りたまひぬ」と。 またのたまはく(観仏経)、「四仏世尊、空より下りて釈迦文仏の床に坐して、讃じてのたまはく、〈善きかな、善きかな。 すなはちよく未来の時の濁悪の衆生のために、三世の仏の白毫の光明を説きて、もろもろの衆生をして罪咎を滅することを得しめたまふ。

所以はいかん。 われ昔曾をおもんみれば、空王仏の所にして出家して道を学しき。 時に四の比丘あり。 ともに同学となりて、仏の正法を習ひき。 煩悩、心を覆ひて、堅く仏法の宝蔵を持つことあたはず、不善の業多くして、まさに悪道に堕つべし。 空中に声ありて、比丘に語りていはく、《空王如来はまた涅槃したまひにき。 なんぢが所犯を救ふものなしと謂へりといへども、なんぢら、いまに入りて像を観ずべし。 仏の在世と等しくして異あることなからん》と。 われ、空の声に従ひて塔に入り、像の眉間の白毫を観じて、すなはちこの念をなさく、《如来の在世の光明・色身は、これとなんぞ異ならん。 仏の大人相、願はくはわが罪を除きたまへ》と。

この語をなしをはりて、大山の崩るるがごとくにして五体を地に投げて、もろもろの罪を懺悔しき。 これより以後、八十億阿僧祇劫に悪道に堕ちず、生々につねに十方の諸仏を見たてまつり、諸仏の所にして甚深の念仏三昧を受持しき。 三昧を得をはりて、諸仏現前して、われに記別を授けたまひき。 東方の妙喜国の阿閦仏は、すなはち第一の比丘これなり。 南方の歓喜国の宝相仏は、すなはち第二の比丘これなり。 西方の極楽国の無量寿仏は、第三の比丘これなり。 北方の蓮華荘厳国の微妙声仏は、第四の比丘これなり〉と。

時に、四の如来おのおの右の手を申べて、阿難が頂を摩で、告げてのたまはく、〈なんぢ、仏語を持ちて、広く未来のもろもろの衆生のために説け〉と。 三たびこれを説きをはりて、おのおの光明を放ちて、本国に還帰したまひにき」と。 またのたまはく(観仏経)、「財首菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、われ過去の無量世の時を念へば、仏世尊ましましき、また釈迦牟尼と名づけたてまつりき。 かの仏の滅後に一の王子ありき、名づけて金幢といひき。 驕慢・邪見にして正法を信ぜざりき。 知識の比丘ありき、定自在と名づくるもの、王子に告げていはく、《世に仏像まします、衆宝をもつて厳飾せり。 しばらく塔に入りて、仏の形像を観ずべし》と。

時にかの王子、善友の語に随ひて、塔に入りて像を観じき。 像の相好を見て、比丘にまうさく、《仏像の端厳なること、なほかくのごとし。 いはんや仏の真身をや》と。 比丘、告げていはく、《なんぢ、いま像を見るに、礼することあたはずは、まさに“南無仏”と称すべし》と。 この時に、王子、合掌し恭敬して、《南無仏》と称しき。 宮に還りて、念を繋けて塔のなかの像を念ずるに、すなはち後夜に夢に仏像を見き。 仏像を見しがゆゑに、心大きに歓喜し、邪見を捨離して、三宝に帰依しき。 寿命終るに随ひて、前に塔に入りて《南無仏》と称せし因縁の功徳によりて、九百万億那由他の仏に値ひて、甚深の念仏三昧を逮得せり。 三昧力のゆゑに、諸仏現前して、それがために記を授けたまひき。 これよりこのかた百万阿僧祇劫、悪道に堕せざりき。 乃至今日、甚深の首楞厳三昧を獲得せり。 その時の王子は、いまのわれ、財首これなり〉」と。 またのたまはく(観仏経)、「仏ののたまはく、〈われ、賢劫のもろもろの菩薩と、曾、過去の栴檀窟仏の所にして、この諸仏の色身・変化の観仏三昧海を聞けり。 この因縁の功徳力をもつてのゆゑに、九百万億阿僧祇劫の生死の罪を超越して、この賢劫にして次第に仏になる。 {乃至}かくのごとく、十方の無量の諸仏もみなこの法によりて三菩提を成じたまふ〉」と。

『迦葉経』(意)にのたまはく、「昔、過去久遠の阿僧祇劫に、仏、世に出でたまへることありき。 号して光明とまうしき。 入涅槃の後に、一の菩薩ありき。 大精進と名づけき。 年はじめて十六にして、婆羅門種なり。 端正なること比びなし。 一の比丘ありて、白畳の上に仏の形像を画きて、持ちて精進に与へき。 精進、像を見て、心大きに歓喜して、かくのごとき言をなさく、〈如来の形像すら妙好なること、なほしかり。 いはんやまた仏の身をや。 願はくは、われ、未来にまたかくのごとき妙身を成就することを得ん〉と。 いひをはりて思念すらく、〈われもし家にあらば、この身は得ること叵し〉と。 すなはち父母にまうして、哀れみを求め、出家せんとせしに、父母答へていはく、〈われいま年老いたり、ただなんぢ一子あるのみ。 なんぢもし出家しなば、われらまさに死ぬべし〉と。 子、父母にまうさく、〈もしわれを聴したまはずは、われ今日より飲せじ、食せじ、床座に昇らじ、また言説せじ〉と。 この誓をなしをはりて、一日食せずして、すなはち六日に至る。 父母・知識・八万四千のもろもろの婇女等、同時に悲泣して、大精進を礼して、尋いで出家を聴しき。 すでに出家することを得、像を持して山に入り、草を取りて座となし、画像の前にありて結跏趺坐し、一心にあきらかに観ぜり。 〈この画像は如来に異ならず。 像は覚にあらず、知にあらず。 一切の諸法もまたかくのごとし。 相なく、相を離れたり。 体性空寂なり〉と。

この観をなしをはりて日夜を経て、五通を成就し、無量を具足し、無礙弁を得、普光三昧を得て、大光明を具せり。 浄天眼をもつて東方の阿僧祇の仏を見たてまつり、浄天耳をもつて仏の所説を聞きて、ことごとくよく聴受しき。 七月を満足するまで、智をもつて食となしき。 一切の諸天、華を散じて供養しき。 山より出でて村落に来至して、人のために法を説くに、二万の衆生、菩提心を発し、無量阿僧祇の人は、声聞・縁覚の功徳に住し、父母・親眷もみな、不退の無上菩提に住しき。 仏、迦葉に告げたまはく、〈昔の大精進は、いまのわが身これなり。 この像を観ぜしによりて、いま仏になることを得たり。 もし人ありて、よくかくのごとき観を学せば、未来にかならずまさに無上道を成ずべし〉」と。 『譬喩経』の第二にのたまはく、「昔、比丘ありき。 その母を度せんと欲せしに、母すでに命過しぬ。 すなはち道眼をもつて天上・人中・擒狩薜茘のなかに求索するに、つひにこれを見ず。 泥梨を観ずるに、母がなかにあるを見て、すなはち懊惋し悲哀して、広く方便を求めて、その苦を脱せんと欲ひき。

時に辺境に王ありき。 父を害して国を奪ひてき。 比丘、この王の命、余り七日ありて、罪を受くる地は、比丘の母と同じく一処にあらんと知りて、夜の安靖の時に、王の寝れる処に到りて、壁を穿ちて半身を現ず。 王、怖ぢて刀を抜きて頭を斫る。 頭すなはち地に落ちぬれども、その処は故のごとし。 これを斫ること数反するに、化の頭、地に満つれども、比丘は動かず。 王、意にすなはち解りて、その非常なることを知りぬ。 頭を叩きて過を謝す。 比丘のいはく、〈恐るることなかれ、怖づることなかれ。 あひ度せんと欲するのみ。 なんぢ、父を害して国を奪へりやいなや〉と。 対へていはく、〈実にしかり。 願はくは慈救せられよ〉と。 比丘のいはく、〈大功徳をなすとも、おそらくはあひ及ばざらんか。 王、まさに南無仏と称すべし。 七日絶えずは、すなはち罪を免るることを得てん〉と。 かさねて、これに告げていはく、〈つつしみてこの法を忘るることなかれ〉と。 すなはち飛びて去りぬ。

王すなはち手を叉へて一心に〈南無仏〉と称説すること、昼夜に懈らず、七日ありて命終して、〔王の〕魂神、泥梨の門に向かひて〈南無仏〉と称す。 泥梨のなかの人、仏といふ音声を聞きて、みな一時に〈南無仏〉といひしかば、泥梨すなはち冷めにき。 比丘、ために法を説きしかば、比丘の母、王、および泥梨のなかの人、みな度脱を得き。 後に大きに精進して、須陀洹道を得き」と。 [以上諸文、略して抄す。]

『優婆塞戒経』にのたまはく、「善男子、われ本往、邪見の家に堕ちたりき、惑網おのづからわれを蓋へり。 われ、その時に名を広利といへり。 妻は名女にして、精進勇猛し度脱すること無量にして、十善をもつて化導しき。 われその時に、心に殺猟をなしき。 酒肉を貪嗜し、懶惰懈怠にして、精進することあたはざりき。 妻時にわれに語らはく、〈その猟殺を止め、戒めて酒肉を断ち、つとめて精進を加へて、地獄の苦悩の患ひを脱して、天宮に上生して、一処に与することを得よ〉と。 われその時においても殺心止まず、酒肉の美味をも割捨することあたはず、精進の心も懶惰にして前まず、天宮は意みを息め、地獄の分を受けたり。 われその時に聚落のうちに居し、僧伽藍に近くして、しばしば鍾を槌つを聞きき。 妻われに語りていはく、〈事々あたはずは、鍾の声を聞くとき、三たび弾指して一たび仏を称せよ。 身を斂めてみづから恭まり、驕慢を生ずることなかれ。 その夜半のごときも、この法廃することなかれ〉と。 われすなはちこれを用ゐて、また捨失することなかりき。 十二年を経て、その妻命終して、忉利天に生れき。 かへりて後三年ありて、われまた寿尽きて、断事に経至せしに、われを判じて罪に入れて、地獄の門に向かへき。 門に入る時に当りて、鍾の三声を声きしに、われすなはち住立して、心に歓喜をなし、愛楽して厭はず。 法のごとく三たび弾指して、長き声をもつて仏を唱へき。 声ごとにみな慈悲ありて、梵音朗らかに徹れりき。 主事、聞きをはりて、心はなはだ愧感すらく、〈これ真の菩薩なりけり。 いかんぞ錯りて判ぜる〉と。

すなはち遣追・還送して、天上に往かしめき。 すでに往き、到りをはりて、五体を地に投げて、わが妻を礼敬して、まうさく、〈大師、幸ひにして大恩を義けて、いま済抜せらる。 すなはち菩提に至るまで教勅に違はじ〉」と。{以上}

また震旦(中国)には、東晋よりこのかた唐朝に至るまで、阿弥陀仏を念じて浄土に往生せるもの、道俗男女、合せて五十余人なり。 僧二十三人、尼六人、沙弥二人、在家男女合せて二十四人。 『浄土論』ならびに『瑞応伝』に出でたり。 わが朝に往生せるもの、またその数あり。 つぶさには慶氏の『日本往生の記』にあり。 いかにいはんや、朝市にありて徳を隠し、山林に名を逃れたるもの、独り修して独り去る、たれか知ることを得んや。

 問ふ。 下下品の人と五百の釈子とは、臨終に同じく念じたるに、昇沈なんぞ別なる。

答ふ。

『群疑論』に会していはく、「五百の釈子は、ただ父が教によりて一たび仏を念ぜしかども、しかも菩提心を発し浄土に生るることを求めて、慇懃に慚愧せざりき。 またかれは心を至さず、またただ一念にして十念を具せざるがゆゑなり」と。 {略抄}

悪趣利益

【65】 第七に悪趣の利益を明かさば、『大悲経』の第二にのたまはく、「もしまた人ありて、ただ心に仏を念じて一たびも敬信をなさば、われ説かく、この人はまさに涅槃の果を得て、涅槃の際を尽すべし。 阿難、しばらく人中の念仏の功徳をば置きて、もし畜生ありて、仏世尊においてよく念をなすものをば、われまた説かく、その善根の福報、まさに涅槃を得べし」と。

 問ふ。 なんらかこれなるや。

答ふ。

同経の第三に、仏、阿難に告げたまはく、「過去に大商主ありき。 もろもろの商人を将て大海に入りしに、その船、にはかに摩竭大魚のために、来りて呑み噬らはれんとす。 その時に、商主およびもろもろの商人、心驚き毛竪ちて、おのおのみな悲しみ泣きて、嗚呼す。 〈奇しきかな、かの閻浮提はかくのごとく楽しむべく、かくのごとく希有なり。 世間の人身、かくのごとく得がたし。 われいままさに父母と離別しぬ。 姉妹・婦児・親戚・朋友にも別離して、われさらに見ざるべし。 また仏・法・衆僧をも見たてまつることを得まじくなりぬ〉と。 きはめて大きに悲哭しき。 その時に、商主ひとへに右の肩を袒し、右の膝を地に着けて、船の上に住して、一心に仏を念じ、掌を合せて礼拝して、声を高くして唱へていはく、〈南無諸仏、得大無畏者、大慈悲者、憐愍一切衆生者〉と。 かくのごとく三たび称する時に、もろもろの商人、また同時にかくのごとく三たび称しき。 時に摩竭魚、仏の名号、礼拝の音声を聞きて、大愛敬をなし、聞きてすなはち口を閉ぢてき。 その時に、商主およびもろもろの商人、みなことごとく安穏にして、魚の難を免るることを得てき。 時に摩竭魚、仏の音声を聞きて、心に喜楽をなし、さらに余のもろもろの衆生をも食噉せざりき。 これによりて命終して人中に生るることを得てき。 その仏の所にして、法を聞き、出家して、善知識に近づきて、阿羅漢を得てき。

阿難、なんぢ、かの魚の、畜生道に生れて、仏の名を聞くことを得、仏の名を聞きをはりて、乃至、涅槃せることを観ぜよ。 いかにいはんや、人ありて、仏の名を聞くことを得、正法を聴聞せんをや」と。 {略抄}また『菩薩処胎経』の「八斎品」にのたまはく、「竜の子、金翅鳥のために、を説きていはく、

〈殺はこれ不善の行なり。寿命を減じて中夭あり。
身は、朝露の虫の、光を見てすなはち命終するがごとし。
戒を持ち仏語を奉ずれば、長寿天に生るることを得て、
累劫に福徳を積みて、畜生道に堕ちず。
いまの身は竜身たれども、戒徳清明にして行ず。
六畜のなかに堕せりといへども、かならずみづから済度することを望ま
ん〉と。

この時に、竜の子、この頌を説く時に、竜子・竜女、心意開解して、寿終りて後に、みなまさに阿弥陀仏の国に生るべし」と。[以上、八斎戒の竜の子なり。

余趣の、仏語を信じて浄土に生るること、これに准へよ。 地獄の利益は、前の国王の因縁、ならびに下の粗心の妙果のごとし。 諸余の利益は、下の念仏の功能のごとし。

第八 念仏証拠

問答一

【66】 大文第八に、念仏証拠といふは、問ふ、一切の善業はおのおの利益あり、おのおの往生することを得てん。 なんがゆゑぞ、ただ念仏の一門を勧むる。

答ふ。

いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行をするにはあらず。 ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥簡ばず時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ。 ゆゑに『木槵経』にのたまはく、「難陀国の波瑠璃王、使ひを遣はして、仏にまうしてまうさく、〈ただ願はくは、世尊、ことに慈愍を垂れて、われに要法を賜ひて、われをして日夜に修行することを得やすく、未来世のうちにもろもろの苦を遠離せしめたまへ〉と。

仏告げてのたまはく、〈大王、もし煩悩障・報障を滅せんと欲はば、まさに木槵子一百八を貫きて、もつてつねにみづから随へて、もしは行、もしは坐、もしは臥に、つねにまさに心を至して分散の意なくして、仏陀・達摩・僧伽の名を称しては、すなはち一の木槵子を過ぐすべし。 かくのごとくして、もしは十、もしは二十、もしは百、もしは千、乃至、百千万せよ。 もしよく二十万遍を満てんに、身心乱れず、もろもろの諂曲なくは、命を捨てて第三の炎摩天に生るることを得て、衣食自然にして、つねに安楽なることを受けん。 もしまたよく一百万遍を満たさば、まさに百八の結業を除断することを得て、生死の流を背きて、涅槃の道に趣き、無上の果を獲べし〉」と。{略抄}

いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。 その文、はなはだ多し。 略して十の文を出さん。

一には、『占察経』の下巻にのたまはく、「もし人、他方の現在の浄国に生れんと欲はば、まさにかの世界の仏の名字に随ひて、意をもつぱらにして誦念すべし。 一心に乱れずして上のごとく観察せば、決定してかの仏の浄国に生るることを得、善根増長して、すみやかに不退を成ぜん」と。

「上のごとき観察」とは、地蔵菩薩の法身および諸仏の法身と、おのが自身と、平等無二にして、不生不滅なり、常楽我浄なり、功徳円満せりと観ずるなり。 また己身無常なること、幻のごとし、厭ふべしと観ずる等なり。

二には、『双巻経』(大経・下)の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな「一向にもつぱら無量寿仏を念じたてまつれ」とのたまへり。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。

四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

五には、同経にのたまはく、「もし心を至して西方に生れんと欲はば、先づまさに一の丈六の像の、池の水の上にましますと観ずべし」と。

六には、同経にのたまはく、「光明あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず」と。

七には、『阿弥陀経』にのたまはく、「少善根の福徳因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。 もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持して、もしは一日{乃至}もしは七日すること、一心に乱れずは、その人命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じて、その前にましまさん。 この人終る時に、心、顛倒せずしてすなはち往生することを得てん」と。

八には、『般舟経』にのたまはく、「阿弥陀仏ののたまはく、〈わが国に来生せんと欲はば、つねにわれを念ぜよ。 しばしば、つねに念をもつぱらにして休息あることなかれ。 かくのごとくせば、わが国に来生することを得ん〉」と。

九には、『鼓音声経』にのたまはく、「もし四衆ありて、よくまさしくかの仏の名号を受持せば、この功徳をもつて、終らんと欲する時に臨みて、阿弥陀、すなはち大衆とこの人の所に往きて、それをして見ることを得しめ、見をはりて尋いで生ぜん」と。

十には、『往生論』(天親の浄土論・意)に、「かの仏の依正の功徳を観念するをもつて、往生の業となせり」と。 {以上}このなかに、『観経』の下下品・『阿弥陀経』・『鼓音声経』は、ただ名号を念ずるをもつて往生の業となせり。 いかにいはんや、相好・功徳を観念せんをや。

問答二

因明と直弁

 問ふ。 余の行に、いづくんぞ勧信の文なからんや。

答ふ。

その余の行法は、ちなみにかの法の種々の功能を明かす。 そのなかにおのづから往生の事を説くなり。 ただちに往生の要を弁ずるに、多く「念仏」といふがごとくにあらず。 いかにいはんや、仏みづからすでにのたまへり、「まさにわれを念ずべし」と。 また仏の光明、余の行人を摂取すとはいはず。 これらの文、分明なり。 なんぞかさねて疑をなさんや。

問答三

 問ふ。 諸経の所説は、機に随ひて万品なり。 なんぞ管見をもつて一の文を執せんや。

答ふ。

馬鳴菩薩の『大乗起信論』(意)にいはく、「また次に、衆生はじめてこの法を学せんに、その心怯弱にして、信心成就すべきこと難きことを懼畏して、意に、退しなんと欲せば、まさに知るべし、如来に勝方便ましまして、信心を摂護したまふ。 随ひて心をもつぱらにして仏を念ずる因縁をもつて、願に随ひて、他方の仏土に往生することを得るなり。 修多羅に説くがごとし。 〈もし人もつぱらにして西方の阿弥陀仏を念じて、所作の善業をもつて回向して、かの世界に生れんと願求すれば、すなはち往生することを得〉」と。{以上}

あきらかに知りぬ、契経に、多く念仏をもつて往生の要となせり。 もししからずは、四依の菩薩はすなはち理尽にあらじ。

第九 往生諸行

【67】 大文第九に、往生諸行を明かさば、いはく、極楽を求むるものは、かならずしももつぱら仏を念ぜず。 すべからく余の行を明かしておのおのの楽欲に任すべし。 これにまた二あり。 初めには、別して諸経の文を明かす。 次には、総じて諸業を結す。

明諸経

【68】 第一に諸経を明かすといふは、『四十華厳経』の普賢願、『三千仏名経』・『無字宝篋経』・『法華経』等の諸大乗経、『随求』・『尊勝』・『無垢浄光』・『如意輪』・『阿嚕力迦』・『不空羂索』・『光明』・『阿弥陀』、および龍樹の所感の往生浄土等の呪なり。 これらの顕密の諸大乗のなかに、みな受持・読誦等をもつて、往生極楽の業となせり。 『大阿弥陀経』(下)にのたまはく、「まさに斎戒し、一心清浄にして、昼夜にまさに念じて阿弥陀仏の国に生れんと欲すべし。

十日十夜、断絶せずは、われみなこれを慈愍してことごとく阿弥陀仏の国に往生せしめん。 たとひしかするにあたはずは、みづから思惟し、よく校計せよ。 身を度脱せんと欲するものは、まさに念を絶つべからず。 愛を去りて、家事を念ふことなかれ。 婦女と床を同じくすることなかれ。 みづから身心を端く正しくして、愛欲を断じて、一心に斎戒清浄にして、至専に阿弥陀仏国に生れんと念じて、一日一夜、断絶せずは、寿終してみなその国に往生して、七宝の浴池の蓮華のなかにありて化生せん」と。

[この『経』(大阿弥陀経)は持戒をもつて首となせり。]『十往生弥陀仏国経』(意)にのたまはく、「われいま、なんぢがために説く、十の往生あり。いかなるか十の往生。 一には身を観じて正念にして、つねに歓喜を懐きて、飲食・衣服をもつて仏および僧に施せば、阿弥陀仏の国に往生す。 二には正念にして、世の妙良薬をもつて一の病比丘および一切衆生に施せば、阿弥陀仏の国に往生す。 三には正念にして、一の生命をも害せず、一切を慈悲すれば、阿弥陀仏の国に往生す。 四には正念にして、師の所に従ひて戒を受け、浄慧をもつて梵行を修し、心につねに喜びを懐けば、阿弥陀仏の国に往生す。 五には正念にして、父母に孝順し師長を敬重し、驕慢の心を懐かざれば、阿弥陀仏の国に往生す。 六には正念にして、僧房に往詣し塔寺に恭敬し、法を聞きて一の義をも解れば、阿弥陀仏の国に往生す。 七には正念にして、一日一宿のうちに八戒斎を受持し、一日一宿のうちに受持して一も破らざれば、阿弥陀仏の国に往生す。 八には正念にして、もしよく斎月・斎日のうちに房舎を遠離してつねに善師に詣れば、阿弥陀仏の国に往生す。 九には正念にして、つねによく浄戒を持ち、勤修して禅定を楽ひ、法を護り悪口せず、もしよくかくのごとく行ずれば、阿弥陀仏の国に往生す。 十には正念にして、もし無上道において誹謗の心を起さず、精進して浄戒を持ちて、また無智のものを教へてこの経法を流布し、無量の衆を教化す。 かくのごときもろもろの人等、ことごとくみな阿弥陀仏の国に往生することを得」と。{以上}

弥勒問経』にのたまはく、「仏の説きたまへるところのごとく、阿弥陀仏の功徳利益を願じて、もしよく十念相続して、不断に仏を念ずるものは、すなはち往生することを得。 まさにいかんが念ずべし。 仏ののたまはく、〈おほよそ十の念あり。 なんらをか十となす。 一には、もろもろの衆生において、つねに慈心を生じてその行を毀らざること、もしその行を毀ればつひに往生せず。 二には、もろもろの衆生において、つねに悲心を起して残害の意を除くこと、三には、護法心を発して身命を惜しまざること、一切の法において誹謗をなさざること、四には、忍辱のなかにおいて決定心を生ずること、五には、深心清浄にして利養に染せざること、六には、一切智の心を発して日々につねに念じて、廃忘あることなきこと、七には、もろもろの衆生において、尊重の心を起し、我慢の心を除き、謙下して言説すること、八には、世の談話において味着をなさざること、九には、覚意に近づき、深く種々の善根の因縁を起し、憒鬧・散乱の心を遠離すること、十には、正念にして仏を観じて諸想を除去することなり〉」と。

『宝積経』の第九十二に、仏またこの十心をもつて弥勒の問に答へたまへり。 そのなかの第六の心にいはく、「仏の種智を求めて、一切の時において忘失する心なし」と。 その余の九種は、文少し異なりといへども、意は前の『経』(弥勒問経)に同じ。 ただ『経』(宝積経)の文にのたまはく、「もし人、この十種の心のうちにおいて、随ひて一心を成じて、かの仏の世界に往生せんと楽欲せんに、もし生ずることを得ずといはば、この処あることなからん」と。 {云々}明らけし、かならずしも十を具して往生の業となすにはあらざるなり。

『観経』にのたまはく、「かの国に生れんと欲はば、まさに三福を修すべし。 一には父母に孝養し、師長奉事し、慈心をもつて殺せず、十善業を修すること、二には三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯せざること、三には菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進することなり。 かくのごとき三事を名づけて浄業となす。 仏、韋提希に告げたまはく、〈なんぢいま知るやいなや。 この三種の業は、過去・未来・現在の三世の諸仏の浄業の正因なり〉」と。 またのたまはく(同・意)、「上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ぜば、三種の心を発して即便往生す。 なんらをか三となす。 一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。 三心を具せるものはかならずかの国に生る。

また三種の衆生ありて、まさに往生することを得べし。 なんらをか三となす。 一には慈心にして殺せず、もろもろの戒行を具すること、二には大乗方等経典を読誦すること、三には六念を修行して、回向発願してかの国に生れんと願ずることなり。 この功徳を具すること、一日乃至七日にして、すなはち往生することを得。 上品中生といふは、かならずしも方等経典を受持せざれども、よく義趣を解りて、第一義において心驚動せず、深く因果を信じ大乗を謗ぜず。 この功徳をもつて、回向して極楽国に生れんと願求するなり。 上品下生といふは、また因果を信じ大乗を謗ぜず。 ただ無上道の心を発して、この功徳をもつて、回向して極楽に生れんと願求するなり。

中品上生といふは、もし衆生ありて、五戒を受持し、八戒斎を持ち、もろもろの戒を修行して五逆を造らず、もろもろの過患なからん。 この善根をもつて、回向して願求するなり。 中品中生といふは、もし衆生ありて、もしは一日一夜八戒斎を受け、もしは一日一夜沙弥戒を持ち、一日一夜具足戒を持ち、威儀欠くることなし。 この功徳をもつて、回向して願求するなり。 中品下生といふは、もし善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ずるなり。

下品上生といふは、あるいは衆生ありて、もろもろの悪業を作らん。 方等経典を誹謗せずといへども、かくのごとき愚人、多くもろもろの悪法を造りて慚愧あることなからん。 終りに臨みて十二部経の首題の名字を聞き、および合掌して〈南無阿弥陀仏〉と称するなり。

下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯せらん。 かくのごとき愚人、命終らんと欲する時に、地獄の衆火、一時にともに至らん。 善知識の、大慈悲をもつて、ために阿弥陀仏の十力威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・知見を讃ずるに遇はん。 この人聞きをはりて八十億劫の生死の罪を除くなり。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。 かくのごとき愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕つべからん。 命終の時に臨みて、善知識に遇ひて、仏を念ずることあたはずといへども、ただ心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿仏〉と称せん。 仏の名を称せんがゆゑに、念々のうちに八十億劫の生死の罪を除くなり」と。

『双巻経』(大経・下)の三輩の業もまたこれを出でず。 『観経』には、十六観をもつて往生の因となせり。 『宝積経』に説かく、仏前の蓮華に化生するに、四の因縁ありと。 偈(同)にのたまはく、

「華香をもつて仏および支提に散ずると、他を害せざると、ならびに像を
造ると、
大菩提において深く信解するとは、蓮華に処して仏前に生るることを得」
と。{以上}余は繁く出さず。

総結諸業

【69】 第二に総じて諸業を結すといふは、〔浄影寺〕慧遠法師、浄土の因要を出せるに、四あり。 「一には観を修して往生すること、十六観のごときなり。 二には業を修して往生すること、三福業のごときなり。 三には心を修して往生すること、至誠等の三心なり。 四には帰向して往生する、浄土の事を聞きて帰向し、称念し、讃嘆すること等なり」(観経義疏・意)と。 いまわたくしにいはく、諸経の行業、総じてこれをいへば、『梵網』戒品を出でず。 別してこれを論ずれば、六度を出でず。 細しくその相を明かせば、その十三あり。 一には財・法等の施、二には三帰・五戒・八戒・十戒等の多少の戒行、三には忍辱、四には精進、五には禅定、六には般若、[第一義を信ずること等これなり。 ]七には菩提心を発すこと、八には六念を修行すること、[仏・法・僧・戒・施・天、これを六念といふ。 十六想観はまたこれを出でず。 ]九には大乗を読誦すること、十には仏法を守護すること、十一には父母に孝順し師長奉事すること、十二には驕慢をなさざること、十三には利養に染せざることなり。 『大集』の「月蔵分」の偈にのたまはく、

「樹の菓繁ければ、すみやかにみづから害するがごとし。竹籚の実を結ぶ
もまたかくのごとし。
任騾の懐すれば、自身を喪ぼすがごとし。無智にして利を求むるもまたし
かり。
もし比丘ありて、供養を得、利養を楽求し堅く着するものは、
世においてさらにかくのごとき悪はなし。ゆゑに解脱の道を得ざらしむ。
かくのごとくして利養を貪求するものは、すでに道を得をはりぬれども、
還りてまた失ふ」と。

また『仏蔵経』に、迦葉仏、記してのたまはく、「釈迦牟尼仏は多く供養を受けたまはんがゆゑに、法まさに疾く滅すべし」と。{云々}

如来なほしかり。 いかにいはんや凡夫をや。 大象窓を出づるに、つひに一の尾のために礙へらる。 行人家を出でたれども、つひに名利のために縛せらる。 すなはち知りぬ、出離の最後の怨は、名利より大なるものはなし。 ただ浄名大士(維摩詰)は、身は家にあれども心は家を出で、薬王の本事は、塵寰を避りて雪山に居せり。 いまの世の行人もまたかくのごとくすべし。 みづから根性を料りて、これを進止せよ。 もしその心を制することあたはずは、なほすべからくその地を避るべし。 麻のなかの蓬屠辺の廏、好悪いづれにかよれるや。 [『仏蔵経』を見て是非を知るべし。]

第十 問答料簡

【70】 大文第十に、問答料簡といふは、略して十の事あり。 一には極楽の依正、二には往生の階位、三には往生の多少、四には尋常の念相、五には臨終の念相、六には粗心の妙果、七には諸行の勝劣、八には信毀の因縁、九には助道の資縁、十には助道の人法なり。

極楽依正

【71】 第一に極楽の依正といふは、問ふ、阿弥陀仏の極楽浄土は、これいづれの身、いづれの土ぞや。

答ふ。

天台(智顗)のいはく(観経天台疏・意)、「応身の仏、同居の土なり」と。 遠法師(浄影寺慧遠)のいはく、「これ応身・応土なり」と。 綽法師(道綽)のいはく、「これ報仏・報土なり。 古旧等、あひ伝へて、みな〈化土・化身なり〉といふ。 これを大きに失せりとなす。

『大乗同性経』によりていはく、〈浄土のなかにして成仏するものは、ことごとくこれ報身なり。 穢土のなかにして成仏するものは、ことごとくこれ化身なり〉と。 またかの『経』(同)にのたまはく、〈阿弥陀如来・蓮華開敷星王如来・竜主如来・宝徳如来等の、もろもろの如来の清浄の仏刹にして、現に得道するもの、まさに得道すべきもの、かくのごとき一切はみなこれ報身の仏なり。 何者か如来の化身とならば、なほ今日の踊歩健如来・魔恐怖如来等のごときなり〉」と。 [以上『安楽集』(上・意)。]

 問ふ。 かの仏成道したまひて、すでに久如しとかせん。

答ふ。

諸経に「十劫」とのたまひ、『大阿弥陀経』(上)には「十小劫」とのたまひ、『平等覚経』(一)には「十八劫」とのたまひ、『称讃浄土経』には「十大劫」とのたまへり。 邪正、知りがたし。 ただ『双巻経』(大経)の憬興師の『疏』(述文賛)に、『平等経』を会していはく、「十八劫とは、それ小の字の、そのなかの点を闕せるなり」と。

 問ふ。 未来の寿はいくばくぞ。

答ふ。

『小経』に、「無量無辺阿僧祇劫」とのたまへり。 『観音授記経』(意)にのたまへり、「阿弥陀仏の寿命、無量百千億劫にして、まさに終極あるべし。 仏涅槃の後に、正法の世に住すること、仏の寿命に等しからん。 善男子、阿弥陀仏の正法の滅して後に、中夜の分を過ぐして明相の出づる時に、観世音菩薩、菩提樹下にして等正覚を成じ、普光功徳山王如来と号せん。 その仏の国土には、声聞・縁覚の名あることなからん。 その仏の国土を、衆宝普集荘厳と号せん。 普光功徳如来涅槃したまひて、正法の滅して後に、大勢至菩薩、すなはちその国にして成仏し、善住功徳宝王如来と号せん。 国土・光明・寿命、乃至、法の住すること、等しくして異なることあることなからん」と。

 問ふ。 『同性経』には「報身」とのたまひ、『授記経』には「入滅」とのたまふ。 二の経の相違、諸師いかんが会する

答ふ。

綽禅師(道綽)、『授記経』を会していはく(安楽集・上)、「これはこれ報身の、隠没の相を現ずるなり。 滅度にはあらず」と。 迦才、『同性経』を会していはく(浄土論)、「浄土のなかにして仏になるを判じて報となすことは、これ受用事身なり。 実の報身にはあらず」と。

 問ふ。 何者をか正となすや。

答ふ。

迦才のいはく(浄土論)、「衆生の起行にすでに千殊あれば、往生して土を見ることまた万別あるなり。 もしこの解を作らば、諸経論のなかに、あるいは判じて報となし、あるいは判じて化となすこと、みな妨難なし。 ただ諸仏の修行、つぶさに報化の二の土を感ずることを知れ。 『摂論』のごときには〈加行は化を感ず、正体は報を感ず〉といへり。 もしは報、もしは化、みな衆生を成就せんと欲すなり。 これすなはち、土は虚しく設けず、行は空しく修せず。 ただ仏語を信じて、経によりて専にして念ずれば、すなはち往生することを得。 またすべからく報と化とを図度るべからず」と。 {以上}この釈、善し。 すべからくもつぱらにして称念すべし。 労しく分別することなかれ。

 問ふ。 かの仏の相好、なにをもつてか不同なる。

答ふ。

『観仏経』に、諸仏の相好を説きてのたまはく、「人の相に同ずるがゆゑに三十二と説き、もろもろの天に勝れたるがゆゑに八十の好と説く。 もろもろの菩薩のためには、八万四千のもろもろの妙相好を説く」と。 {以上}かの仏これに准へよ。

 問ふ。 『双巻経』(大経・上)にのたまはく、「かの仏の道樹は高さ四百万里なり」と。 『宝積経』にのたまはく、「道樹の高さ十六億由旬なり」と。 『十往生経』にのたまはく、「道樹の高さ四十万由旬なり。 樹下に獅子座あり、高さ五百由旬なり」と。 『観経』にのたまはく、「仏の身量、六十万億那由他恒河沙由旬なり」と。 {云々}樹と座と仏身と、なんぞあひ称はざる。

答ふ。

異解不同なり。 あるいは釈すらく、「仏の境界は大小あひ礙へず」と。 あるいは釈すらく、「応仏に寄せて樹量を説き、真仏に寄せて身量を説く」と。 また多くの釈あり。 つぶさに述ぶべからずと。

 問ふ。 『華厳経』(意)にのたまはく、「娑婆世界の一劫を極楽国の一日一夜となす」と等いへり。 {云々}これによりてまさに知るべし、上品中生の、宿を経て華開くるは、この間の半劫に当れり。 乃至、下下生の十二劫は、この間の恒河沙塵数の劫に当れり。 なんぞ極楽と名づけん。

答ふ。

たとひ恒沙劫を経て蓮華開けずとも、すでに微しき苦なし、あに極楽にあらずや。 『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、「その胎生のものの処するところの宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。 おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くること、忉利天のごとし」と。 {以上}ある師のいはく、「胎生は、これ中品・下品なり」と。 ある師はいはく、「九品に摂せざるところなり」と。 異説ありといへども快楽は別ならず。 いかにいはんや、かの九品の経るところの日時を判ずること、諸師不同なるをや。 懐感・智憬等の諸師は、かの国土の日夜劫数なりと許すは、まことに責むるところに当れり。 ある師のいはく、「仏、この土の日夜をもつて、これを説きて、衆生をして知らしめたまふ」と。 {云々}いまいはく、後の釈、失なし。 しばらく四の例をもつて助成せん。

一には、かの仏の身量、そこばく由旬といふは、かの仏の指分をもつて、畳ねてかの由旬となせるにあらず。 もししからずは、須弥山のごとき長大の人の、一毛端をもつて、その指の節となさんに似たるべし。 ゆゑに知りぬ、仏の指の量をもつて仏身の長短を説かずといふことを。 なんぞかならずしも、浄土の時剋をもつて華の開くる遅速を説かんや。 二には、『尊勝陀羅尼経』に説くがごとし。 「忉利天上の善住天子、空の声の告ぐるを聞くに、〈なんぢ、まさに七日ありて死ぬべし〉と。 時に天帝釈、仏の教勅を承けて、かの天子をして七日勤修せしむ。 七日を過ぎて後に、寿命延ぶることを得たり」と。{取意}

これはこれ、人中の日夜をもつて説けるなり。 もし天上の七日によらば、人中の七百歳に当れり。 仏世の八十年のうちに、その事を決了すべきにあらず。 九品の日夜もまたこれに同じかるべし。 三には、法護所訳の『経』にのたまはく、「胎生の人は、五百歳を過ぎて仏を見たてまつることを得」と。

『平等覚経』(三)にのたまはく、「蓮華のなかに化生して、城のなかにあり。 この間の五百歳にして、出づることを得ることあたはず」と。 {取意}憬興等の師、この文をもつて、この方の五百歳なりといふことを証す。 いまいはく、かの胎生の歳数、すでにこの間によりて説く。 九品の時剋、なんの別義ありてか、かれに同じからざらんや。 四には、もしかの界によりて九品を説けりとせば、上品中生の一宿、上品下生の一日一夜は、すなはちこの界の半劫・一劫に当れり。 もししかなりと許さば、胎生の疑心のものすら、なほ娑婆の五百歳を経て、すみやかに仏を見たてまつることを得るに、上品の信行のもの、あに半劫・一劫を過ぎて、遅く蓮華を開かんや。 この理あるがゆゑに、後の釈は失なし。

 問ふ。 もしこの界の日夜の時剋をもつてかの相を説かば、かの上上品は、かの国に生れをはりて、すなはち無生法忍を悟るべからず。 しかる所以は、この界の少時の修行をば勝れたりとなし、かの国の多時の善根をば劣なりとなす。 すでにしからば、上上品の人は、この世界にして、一日より七日に至るまで、三福業を具足するに、なほ無生法忍を証することあたはざりき。 いかんぞ、かしこに生れて、法を聞きてすなはち悟らんや。 ゆゑに知りぬ、かの国土の長遠の時剋を経て、無生忍を悟るなり。 しかも、かしこに約して、すなはち悟ると名づくるも、ここに望むれば、すなはち億千歳なり。 あるいは上上の人は、かならずこれ方便の後心の行、円満せるものなるべし。 もししからずは、諸文桙楯せん。

答ふ。

いまだ、かの国の多善は劣なり、この界の少善は勝れたりといふことを知らず。

 問ふ。 『双巻経』(大経・下)に説かく、「ここにして広く徳本を殖ゑ、恩を敷き恵を施し、道禁を犯することなく、忍辱し、精進し、一心し、智慧ありて、うたたあひ教化して、善を立し、意を正しくし、斎戒清浄にして一日一夜すれば、無量寿仏の国にありて、善をなすこと百歳するに勝れたり。 所以はいかん。 かの仏国土は無為自然にして、みなもろもろの善を積みて毛髪の悪もなし。 ここにして善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国のなかにして善をなすこと千歳するに勝れたり」と。 {以上}これその勝劣なり。

答ふ。

二界の善根を剋対するにはしかるべし。 しかも、値仏の縁勝れたれば、すみやかに悟るに失なし。 あるいはこの『経』(大経・下)は、ただ修行の難易を顕し、善根の勝劣を顕すにはあらず。 たとへば、貧賤なるものの一銭を施するをば、称美すべしといへども、しかも衆事を弁ぜず、富貴の千金を捨つるは称すべからずといへども、しかもよく万事を弁ずるがごとし。 二界の修行もまたかくのごとし。 『金剛般若経』(意)にのたまへるがごとし。 「仏世にして信解するをば、いまだ勝れたりとなすに足らず。 滅後をば勝れたりとなす」と。 あるいは余の義あり。 委曲することあたはず。

 問ふ。 娑婆の行因に随ひて、極楽の階位に別あるがごとく、所感の福報もまた別ありや。

答ふ。

大都は別なきも、細分は差あり。 『陀羅尼集経』の第二にのたまふがごとし。 「もし人、香華・衣食等をもつて供養せざるものは、かの浄土に生れたりといへども、しかも香華・衣食等の種々の供養の報を得ず」と。 [この文は、かの仏の本願に違へり。 さらにこれを思釈せよ。 ]玄一師・因法師、同じくいはく、「実に約して論ずれば、また勝劣あり。 しかもその状相似せるがゆゑに好醜なしと説く」と。

 問ふ。 極楽世界は、ここを去ることいくばくぞ。

答ふ。

』にのたまはく、「ここより西方に、十万億の仏土を過ぎて極楽世界あり」と。 ある『経』(称讃浄土経)にのたまはく、「これより西方に、この世界を去ること百千倶胝那由他の仏土を過ぎて仏の世界あり。 名づけて極楽といへり」と。

 問ふ。 二の経、なんがゆゑぞ不同なる。

答ふ。

『論』(浄土論)の智光の『疏』の意にいはく、「倶胝といふは、ここには億となす。 那由他といふは、この間の垓の数に当れり。 世俗にいはく、十の千を万といひ、十万を億といひ、十億を兆といひ、十兆を経といひ、十経を垓といふ。 垓はなほこれ大数なり。 百千倶胝はすなはち十万億なり。 億に四の位あり。 一には十万、二には百万、三には千万、四には万万なり。 いま億といふはすなはちこれ万万なり。 この義を顕さんがために那由他を挙ぐ」と。 {以上}この釈思ふべし。

 問ふ。 かの仏の所化はただ極楽とやせん、また余ありとやせん。

答ふ。

『大論』(大智度論)にいはく、「阿弥陀仏にもまた厳浄・不厳浄の土あること、釈迦文のごとし」と。

 問ふ。 なんらかこれなるや。

答ふ。

極楽世界はすなはちこれ浄土なり。 しかも、その〔阿弥陀仏の〕穢土はいまだいづれの処なるかを知らず。 ただし道綽等の諸師、『鼓音声経』の所説の国土をもつてかの穢土となす。 かの『経』(同)にのたまふがごとし。 「阿弥陀仏は声聞とともなり。 その国を号して清泰といふ。 聖王の住むところなり。 その城は縦広十千由旬なり。 なかにおいて刹利の種を充満せり。 阿弥陀仏・如来・・正遍知の父を月上転輪聖王と名づく。 その母を名づけて殊勝妙顔といふ。 を月明と名づく。 奉事の弟子を無垢称と名づく。 智慧の弟子を名づけて攬光といふ。 神足精勤のものを名づけて大化といふ。 その時の魔王を名づけて無勝といふ。 提婆達多あり、名づけて寂といふ。 阿弥陀仏、大比丘六万の人とともなり」と。

 問ふ。 かの仏の所化は、ただ極楽・清泰との二の国とのみやせん。

答ふ。

教文は、縁に随ひてしばらく一隅を挙ぐ。 その実処を論ずれば不可思議なり。 『華厳経』の偈にのたまふがごとし。

「菩薩もろもろの願海を修行して、あまねく衆生の心の所欲に随ふ。
衆生の心行広くして無辺なれば、菩薩の国土も十方に遍せり」と。またのたまはく(華厳経)、
「如来出現したまひて十方に遍し、一々の塵のなかに無量の土あり。
そのなかの境界また無量なるに、ことごとく無辺無尽の劫に住したまふ」
と。

 問ふ。 如来の施化は、事孤り起りたまはず。 かならず機縁に対す。 なんぞ十方に遍する。

答ふ。

広劫に修行して無量の衆を成就したまへり。 ゆゑにかの機縁、また十方の界に遍せり。 『華厳』の偈にのたまふがごとし。

「往昔に勤修したまふこと多劫海にして、よく衆生の深重の障を転じたま
へり。
ゆゑによく身を分つこと十方に遍して、ことごとく菩提樹王の下に現じた
まふ」と。

往生階位

【72】 第二に往生の階位といふは、問ふ、『瑜伽論』(意)にいはく、「三地の菩薩、まさに浄土に生る」と。 いま地前の凡夫・声聞を勧むるに、なんの意かある。

答ふ。

浄土に差別あるがゆゑに過あることなし。 感師(懐感)の釈(群疑論・意)にいふがごとし。 「もろもろの経論の文に、浄土に生ずることを説くに、おのおの一の義によれり。 浄土すでに粗妙・勝劣あれば、生ずることを得ることもまた上下階降あり」と。 また道宣律師のいはく、「三地の菩薩、はじめて報仏の浄土を見る」と。

 問ふ。 たとひ報土にあらずとも、惑業重きもの、あに浄土を得んや。

答ふ。

天台(智顗)ののたまはく(維摩経略疏・意)、「無量寿の国は果報殊勝なりといへども、臨終の時に懺悔し念仏すれば、業障すなはち転じて、すなはち往生を得。 惑染を具せりといへども、願力をもつて心を持ちて、また〔浄土に〕居することを得」と。

 問ふ。 もし凡夫また往生することを得と許さば、『弥勒問経』をいかんが通会せん。 『』(同)にのたまはく、「仏を念ずるは凡愚の念にあらず。 結使を雑せずして、弥陀仏国に生るることを得」と。

答ふ。

『西方要決』に釈していはく、「娑婆は苦なりと知りて永く染界を辞するは、すなはち薄浅の汎にあらず当来に仏に作りて、意もつぱら広く、法界の衆生を度せんとす。 この勝解あるがゆゑに愚ならず。 正念する時に結使眠伏す。 ゆゑに結使の念を雑へずといふ」と。 {略抄}意のいはく、凡夫の行人の、この徳を具せるなり。

 問ふ。 かの国の衆生はみな不退転なり。 あきらかに知りぬ、これ凡夫の生処にあらずといふことを。

答ふ。

いふところの不退とは、かならずしもこれ聖の徳にあらじ。 『要決』(西方要決)にいふがごとし。 「いま不退を明かすに、その四種あり。 『十住毘婆沙』にいはく、〈一には位不退、すなはち因を修すること万劫ありて、また、悪律儀の行に退堕し生死に流転せざるなり。 二には行不退、すでに初地を得て、利他の行退せざるなり。 三には念不退、八地以去は無功用にして、意に自在を得るがゆゑに。 四には処不退、文証なしといへども、理に約してもつて成ず。 いかんとならば、天のなかに果を得れば、すなはち不退を得るがごとく、浄土またしかなり。 命長くして病なく、勝れたる侶と提携し、純正にして邪なく、ただ浄にして染なく、つねに聖尊に事へまつる、この五の縁によりてその処に退くことなし〉」と。 {以上略抄}

 問ふ。 九品の階位、異解不同なり。 遠法師(浄影寺慧遠)のいふがごとし。 「上が上生は四・五・六地なり。 上が中生は初・二・三地なり。 上が下生は地前の三十心なり」と。 力法師のいはく、「上上は行・向なり、上中は十解なり、上下は十信なり」と。 基師のいはく、「上上は十回向、上中は解行り、上下は十信なり」と。 あるがいはく、「上上は十住の初心なり、上中は十信の後心なり、上下は十信の初位なり」と。 あるがいはく、「上上は十信および以前の、よく三心を発して、よく三行を修するものなり。 上中・上下は、ただ十信以前の、菩提心を発して、善を修する凡夫を取る。 起行の浅深により、もつて二品を分つ」と。

諸師の所判の不同なる所以は、無生忍の位の不同なるをもつてのゆゑなりと。 『仁王経』には、無生忍は七・八・九地にあり。 諸論には、初地にあるいは忍位にあり。 『本業瓔珞経』には、十住にあり。 『華厳経』には、十信にあり。 『占察経』には、一行三昧を修して相似の無生法忍を得るものを説けり。 ゆゑに諸師おのおの一の義によるなり。 中品の三生は、遠(浄影寺慧遠)のいはく、「中上はこれ前三果なり、中中はこれ七方便なり、中下はこれ解脱分の善を種ゑたる人なり」と。 力法師これに同じ。 基法師のいはく、「中上は四善根、中中は三賢、中下は方便の前の人なり」と。 あるがいはく、「次いでのごとく、忍・頂・煖なり」と。 あるがいはく、「三生はならびにこれ解脱分の善根を種ゑたる人なり」と。 [以上六品にまた余の釈あり。 感禅師(懐感)の『論』(群疑論)、龍興の『記』(観無量寿経記)等に見えたり。]下品の三生は別の階位なし。 ただこれ具縛造悪の人なり。 明らけし、往生の人はその位限りあり。 いかんぞ、なほこれわれらが分なりとは知るや。

答ふ。

上品の人、階位たとひ深くとも、下品の三生、あにわれらが分にあらざらんや。 いはんや、かの後の釈に、すでに十信以前の凡夫を取りて上品の三となせるをや。 また『観経』の善導禅師の「玄義」(玄義分)に、大小乗の方便以前の凡夫をもつて九品の位を判じて、諸師の所判の深高なることを許さず。 また経論は、多く文によりて義を判ず。 いまの『経』(観経)の所説の上の三品の業を、なんぞかならずしも執して深位の行となさんや。

 問ふ。 もししからば、かしこに生じて、早く無生法忍を悟るべからず。

答ふ。

天台には二の無生忍の位あり。 もし別教の人ならば、歴劫修行して無生忍を悟り、もし円教の人ならば、乃至、悪趣の身にしてまた頓に証するものあり。 穢土なほしかなり、いかにいはんや浄土をや。 かの土の諸事をば、余処に例することなかれ。 いづれの処にか、一切の凡夫、いまだその位に至らざるに、つひに退堕することなく、いづれの処にか、一切の凡夫、ことごとく五神通を得て妙用無礙ならんや。 証果の遅速、例してまたしかるべし。  問ふ。 上品生の人の、得益の早晩は一向にしかるか。

答ふ。

『経』(観経)のなかにはしばらく一類を挙ぐるなり。 ゆゑに〔浄影寺〕慧遠和尚の『観経の義記』(観経義疏)にいはく、「九品の人の、かの国に生れをはりて、益を得る劫数は、勝れたるによりて説く。 理またこれに過ぎたるものもあるべし」と。 {取意}いまいはく、ひろく九品を論ぜば、あるいはまた少分これよりすみやかなるものもあるべし。

 問ふ。 『双巻経』(大経)のなかに、また弥勒等のごとき、もろもろの大菩薩の、まさに極楽に生ずべきあり。 ゆゑに知りぬ、『経』(観経)のなかの九品の得益は劣なるによりてしかも説けるなり。 いかんぞ「勝れたるによる」とはいふや。

答ふ。

かの国に生れてはじめて無生を悟る、前後・早晩に約して、これを「勝れたるによる」といふなり。 さらにかの上位の大士をば論ぜず。 しかも、かの大士、九品のなかにおいて摂と不摂とを、別に思択すべし。

 問ふ。 もし凡下の輩もまた往生することを得ば、いかんぞ、近代、かの国土において求むるものは千万なるも、得ることは一二もなきや。

答ふ。

綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・上意)、「信心深からずして、存ぜるがごとく、亡ぜるがごときゆゑに。 信心一ならずして、決定せざるがゆゑに。 信心相続せずして、余念間つるがゆゑに。 この三、相応せざるものは、往生することあたはざるなり。 もし三心を具して往生せずといはば、この処あることなからん」と。 導和尚(善導)のいはく(礼讃)、「もしよく上のごとく念々相続して命を畢ふるを期となすものは、十はすなはち十生じ、百はすなはち百生ず。 もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百にして時に希に一二を得、千にして時に希に三五を得」と。 [「上のごとく」といふは、礼・讃等の五念門、至誠等の三心、長時等の四修を指すなり。 ]

 問ふ。

もしかならず命を畢ふるを期となさば、いかんぞ、感和尚(懐感)の、「長時・短時、多修・少修、みな往生することを得」(群疑論)といへるや。

答ふ。

業類一にあらざるがゆゑに、二の師ともに過なし。 しかも、命を畢ふるを期となして、勤修して怠ることなくは、業をして決定せしむるに、これを張本となす。

報化得失

 問ふ。 『菩薩処胎経』の第二に説かく、「西方にこの閻浮提を去ること十二億那由他して懈慢界あり。

国土快楽にして、倡妓楽を作り、衣被・服飾・香華をもつて荘厳せり。 七宝転開の床あり。 目を挙げて東を視れば、宝床随ひて転ず。 北を視、西を視、南を視るにもまたかくのごとく転ず。 前後に

意を発せる衆生の、阿弥陀仏国に生れんと欲するもの、みな深く懈慢国土に着して、前進して、阿弥陀国に生るることあたはず。 億千万の衆、時に一人ありてよく阿弥陀仏の国に生ず」と。

{以上}この『経』(菩薩処胎経)をもつて准ずるに、生ずることを得べきこと難し。

答ふ。

『群疑論』に、善導和尚の前の文を引きて、この難を釈して、またみづから助成していはく、「この『経』(菩薩処胎経)の下の文にのたまはく、〈なにをもつてのゆゑに。 みな懈慢によりて執心牢固ならず〉と。 ここをもつて知りぬ、雑修のものは執心不牢の人となすなり。 ゆゑに懈慢国に生ず。 もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。 {乃至}また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。 化の浄土のなかに生るるもの少なからず。 ゆゑに経に別に説けり。 実には相違せず」と。

{以上}

 問ふ。 たとひ三心を具せずといへども、命を畢ふることを期せずといへども、かの一たび名を聞くすら、なほ仏になることを得。 いはんやしばらくも称念する、なんぞ唐捐ならんや。

答ふ。

しばらくは唐捐なるに似たれども、つひには虚設ならず。 『華厳』の偈に、経を聞くものの、転生の時の益を説きてのたまふがごとし。

「もし人、聞くに堪任せるものは、大海および、
劫尽の火のなかにありといへども、かならずこの経を聞くことを得ん」と。
[「大海」とは、これ竜界なり。

釈していはく(探玄記・意)、「余の業によるがゆゑにかの難処に生る。 前の信によるがゆゑにこの根器を成ぜり」と。{云々}

『華厳』を信ずるもの、すでにかくのごとし。 念仏を信ずるもの、あにこの益なからんや。 かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。 かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。{云々}感師(懐感)の意もまたこれに同じ。


 問ふ。 下下品の人、もし宿善によらば、十念生の本願(第十八願)、すなはち名ありて実なからん。

答ふ。

たとひ宿善ありとも、もし十念なくは、さだめて無間に堕ち、受苦窮まりなからん。 明らけし、臨終の十念これ往生の勝縁なり。

往生多少

【73】 第三に往生の多少といふは、『双巻経』(大経・下意)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より、六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生す。 一々の菩薩は、すでにかつて無数の諸仏を供養して、次いで弥勒のごとし。 もろもろの小行の菩薩および少功徳を修せるものも、称計すべからず。 みなまさに往生すべし。 他方の仏土もまたかくのごとし。

その遠照仏国の百八十億の菩薩、宝蔵仏国の九十億の菩薩、無量意仏国の二百二十億の菩薩、甘露味仏国の二百五十億の菩薩、竜勝仏国の十四億の菩薩、勝力仏国の万四千の菩薩、師子仏国の五百の菩薩、離垢光仏国の八十億の菩薩、徳首仏国の六十億の菩薩、妙徳山仏国の六十億の菩薩、人王仏国の十億の菩薩、無上華仏国の無数不可称計の不退のもろもろの菩薩、智慧勇猛にして、すでにかつて無量の諸仏を供養したてまつり、七日のうちに、すなはちよく百千億劫の大士の所修の堅固の法を摂取す。

無畏仏国の七百九十億の大菩薩衆、もろもろの小菩薩および比丘等は、称計すべからず。 みなまさに往生すべし。 ただこの十四仏の国のなかのもろもろの菩薩等の、まさに往生すべきのみにあらず。 十方世界の無量の仏国より、その往生するものもまたかくのごとく、はなはだ多くして無数なり。 われ、ただ十方の諸仏の名号および菩薩・比丘のかの国に生るるものを説かば、昼夜にして一劫すともなほいまだ竟ることあたはじ〉」と。 {以上}

この諸仏の土のなかに、いまの娑婆世界に少善を修して、まさに往生すべきものあり。 われら、いま幸ひに釈尊の遺法に遇ひて、億劫の時に一たびたまたま少善往生の流に預かれり。 務ぎて勤修すべし。 時を失ふことなかれ。

 問ふ。 もし少善根また往生することを得ば、いかんぞ、『経』(小経)に「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生るることを得べからず」とはのたまへる。

答ふ。

これに異解あり、繁く出すことあたはず。 いまわたくしに案じていはく、大小は定まれることなし。 相待して名を得。 大菩薩に望むれば、これを少善と名づくと。 輪廻の業に望むれば、これを名づけて大となす。 このゆゑに、二経の義、違害せず。

尋常念相

【74】 第四に尋常の念相を明かさば、これに多種あり。 大きに分ちて四となす。 一には定業、いはく、坐禅入定して仏を観ずるなり。 二には散業、いはく、行住坐臥に、散心に仏を念ずるなり。 三には有相の業、いはく、あるいは相好を観じ、あるいは名号を念じて、ひとへに穢土を厭ひて、もつぱらにして浄土を求むるなり。 四には無相の業、いはく、仏を称念し浄土を欣求すといへども、しかも身土すなはち畢竟空にして、幻のごとく夢のごとし、体に即して空なり、空なりといへども有なり、非有非空なりと観じて、この無二を通達して、真に第一義に入るなり。 これを無相の業と名づく。 これ最上の三昧なり。 ゆゑに『双巻経』(大経・下)に、阿弥陀仏ののたまはく、

「諸法の性は、一切空・無我なりと通達すれども、
もつぱら浄仏土を求めて、かならずかくのごときを成ぜん」と。

また『止観』の常行三昧のなかに、三段の文あり。 つぶさには上の別行のなかに引くがごとし。

 問ふ。 定散の念仏は、ともに往生するや。

答ふ。

慇重の心をもつて念ずれば、往生せずといふことなし。 ゆゑに感師(懐感)、念仏の差別を説きていはく(群疑論・意)、「あるいは深、あるいは浅、定に通じ散に通ず。 定といふはすなはち凡夫より十地に終る。 善財童子の、功徳雲比丘の所にして念仏三昧を請け学びしごとき、これすなはち甚深の法なり。 散といふはすなはち一切衆生の、もしは行、もしは坐、一切の時処にみな仏を念ずることを得て、諸務も妨げず、乃至、命終にまたその行を成ずるなり」と。 {以上}  問ふ。 有相・無相の業は、ともに往生することを得るや。

答ふ。

綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・上)、「もし始学のものは、いまだ相を破することあたはず、ただよく相によりて専至せば、往生せずといふことなし。 疑ふべからず」と。 また感和尚(懐感)のいはく(群疑論)、「往生すでに品類差殊なれば、修因また浅深ありて各別なり。 ただいふべからず、ただ無所得を修して往生することを得、有所得の心は生ずることを得ず」と。

 問ふ。 もししからば、いかんぞ『仏蔵経』(意)に説かく、「もし比丘ありて、余の比丘に教へて、〈なんぢまさに仏を念じ、法を念じ、僧を念じ、戒を念じ、施を念じ、天を念ずべし。 かくのごとき等の思惟をもつて、涅槃の安楽寂滅なることを観じ、ただ涅槃の畢竟清浄なることを愛せよ〉と。 かくのごとく教ふるものを名づけて邪教となし、悪知識と名づく。 この人を名づけて、われを誹謗して外道を助くとなす。 かくのごとき悪人は、われすなはち一飲の水をも受くることを聴さず」と。 またのたまはく(仏蔵経)、「むしろ五逆重悪を成就すとも、我見・衆生見・寿見・命見・陰入界見等をば成就せざれ」と。 {以上略抄}

答ふ。

感師(懐感)釈していはく(群疑論・意)、「ある聖教(無上依経)にまたのたまはく、〈むしろ我見を起すこと須弥山のごとくにすとも、空見を起すこと芥子ばかりのごとくもせざれ〉と。 かくのごとき等の諸大乗経に、有を訶し空を訶し、を讃じを讃ずること、ならびにすなはち機にじて不同なり。 またある『経』(大集経)にのたまはく、〈いま阿弥陀如来・正等覚は、つぶさにかくのごとき三十二相・八十随形好まします。 身色・光明は聚金の融けたるがごとし。 かくのごとくおもひて、乃至、かの如来を念ぜず。 またかの如来を得ざれ、すでにかくのごとくして次第に空三昧を得〉と。

また『観仏三昧経』にのたまはく、〈如来にまた法身・十力・無畏・三昧・解脱、もろもろの神通の事まします。 かくのごとき妙処は、なんぢ凡夫の覚るところの境界にあらず。 ただまさに深心にして随喜の想を起すべし。 この想を起しをはりて、まさにまた念を繋けて仏の功徳を念ずべし〉と。 ゆゑに知りぬ、初学の輩はかの色身を観じ、後学の徒は法身を念ずるなり。 ゆゑに、〈かくのごとくして次第に空三昧を得〉といへり。 まさにすべからくよく経の意を会すべし、毀讃の心をなすことなかれ。 妙に知る、大聖(釈尊)は巧みに根機に逗じたまへることを」と。 [以上、『観仏経』の第九に、仏の一毛を観じ、乃至、具足の色身を観ずることを説きをはりて、引くところの十力・無畏・三昧等の文あり。]

 問ふ。 念仏の行は、九品のなかにおいては、これいづれの品の摂ぞ。

答ふ。

もし説のごとく行ずるは、理、上上に当れり。 かくのごとくして、その勝劣に随ひて九品を分つべし。 しかも『経』(観経)の所説の九品の行業は、これ一端を示すなり。 理、実には無量なり。

 問ふ。 もし定散ともに往生することを得るがごとく、また現身にともに仏を見たてまつるとせんや。

答ふ。

経論に多く、「三昧成就して、すなはち仏を見たてまつることを得」と説けり。 あきらかに知りぬ、散業は見たてまつることを得べからずといふことを。 ただ別縁をば除く。

 問ふ。 有相・無相の観、ともに仏を見たてまつることを得るや。

答ふ。

無相の、仏を見たてまつることは、理疑はざるにあり。 その有相の観も、あるいはまた仏を見たてまつる。 ゆゑに『観経』等に色相を観ずることを勧めたり。

 問ふ。 もし有相観また仏を見たてまつらば、いかんぞ『華厳経』の偈に、

「凡夫の諸法を見ること、ただ相に随ひて転ず。
法の無相を了せず、これをもつて仏を見たてまつらざるなり。
見ることあるをばすなはちとなす。これはすなはちいまだ見るとなさず。
諸見を遠離し、かくのごとくしてすなはち仏を見たてまつる」とのたまひ、また(同)、
「一切の法は自性無所有なりと了知する、
かくのごとく法性を解すれば、すなはち盧舎那を見たてまつる」とのたまひ、また『金剛経』に、
「もし色をもつてわれを見、音声をもつてわれを求むるは、
この人は邪道を行じて、如来を見たてまつることあたはず」とのたまへるや。

答ふ。

『要決』(西方要決)に通じていはく、「大師(釈尊)の、教を説きたまふことは、義に多門あり。 おのおの時機に称ひ、等しくして差異なし。 〈般若経〉はおのづからこれ一門なり。 『弥陀』等の経もまた一理なりとなす。 なんとならば、一切の諸仏にならびに三身まします。 法仏には形体なく、色・声なし。 まことに二乗および小菩薩の、三身不異なりと説きたまふを聞きて、すなはち同じく色・声ありと謂ひて、ただ化身の色相を見て、つひに法身もまたしかなりと執するがためのゆゑに、説きて邪となす。 『弥陀経』等に、仏の名を念じ、相を観じ、浄土に生るることを求めよと勧めたることは、ただ凡夫の障重くして、法身の幽微にして、法体縁ずること難きをもつて、しばらく仏を念じ、形を観じ、礼讃せよと教へたまふなり」と。 {略抄}

 問ふ。 凡夫の行者は、つとめて修習すといへども、心純浄ならず。 なんぞたやすく仏を見ん。

答ふ。

衆縁合して見るなり。 ただ自力のみにはあらじ。 『般舟経』に三の縁あり。 上の九十日の行に引くところの『止観』の文のごとし。

 問ふ。 いくばくの因縁をもつてか、かの国に生るることを得る。

答ふ。

経によりてこれを案ずるに、四の因縁を具す。 一は自善根の因力、二は自願求の因力、三は阿弥陀の本願の縁、四は衆聖助念の縁なり。 [釈迦の護助は『平等覚経』に出でたり。 六方の仏の護念は『小経』に出でたり。 山海恵菩薩等の護持は『十往生経』に出でたり。]

臨終念相

【75】 第五に臨終の念相を明かさば、 問ふ、下下品の人、臨終に十念して、すなはち往生することを得。 いふところの十念は、なんらの念ぞや。

答ふ。

綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・上)、「ただ阿弥陀仏の、もしは総相、もしは別相を憶念して、所縁に随ひて観じ、十念を経て他の念想間雑することなき、これを十念と名づく。 また十念相続といふは、これ聖者の一の数の名のみ。 ただよく念を積み、思を凝らして、他の事を縁ぜざれば、すなはち業道成弁す。 またいまだ労はしくこれが頭数をしも記せず。 またいはく、もし久行の人の念は、多くこれによるべし。 もし始行の人の念は、数を記するもまた好し。 これまた聖教によれり」と。 {以上}あるがいはく、「一心に〈南無阿弥陀仏〉と称念して、この六字を経るあひだを一念と名づく」と。

 問ふ。 『弥勒所問経』の十念往生は、かの一々の念、深広なり。 いかんぞ、いま十声仏を念じて往生を得といふや。

答ふ。

諸師の所釈、不同なり。 寂法師(義寂)のいはく、「これは、心をもつぱらにして仏の名を称する時に、自然にかくのごとき十を具足すと説くなり。 かならずしも一々に、別に慈等を縁ずるにはあらず。 またかの慈等を数へて十となすにはあらず。 いかんぞ、別に縁ぜざるに、しかも十を具足するとならば、戒を受けんと欲して三帰を称する時に、別に離殺等の事を縁ぜずといへども、しかもよくつぶさに離殺等の戒を得るがごとし。 まさに知るべし、このなかの道理もまたしかなり。

また十念を具足して〈南無阿弥陀仏〉と称すべしといふは、いはく、よく慈等の十念を具足して〈南無仏〉と称するなり。 もしよくかくのごとくすれば、称念するところに随ひて、もしは一称、もしは多称、みな往生することを得」と。 感法師(懐感)のいはく(群疑論)、「おのおのこれ聖教にして、たがひに往生浄土の法門を説けば、みな浄業を成ず。 なにによりてか、かれをもつて是となし、これを斥けて非といはん。 ただしみづから経を解らず、またすなはちもろもろの学者を惑はす」と。 迦才師のいはく(浄土論)、「この十念は、現在の時になすなり。 『観経』のなかの十念は、命終の時に臨みてなすなり」と。 {以上}意、感師(懐感)に同じ。

 問ふ。 『双巻経』(大経・下意)にのたまはく、「乃至一念するに、往生することを得」と。 これ十念と、いかんが乖角せる。

答ふ。

感師のいはく(群疑論・意)、「極悪業のものは十を満てて生ずることを得、余のものは、乃至一念してもまた生ず」と。  問ふ。 生れてよりこのかた、もろもろの悪を作りて一善をも修せざるもの、命終の時に臨みてわづかに十声念ずるに、なんぞよく罪を滅して、永く三界を出でて、すなはち浄土に生れん。

答ふ。

『那先比丘問仏経』(意)にのたまふがごとし。 「時に弥蘭王ありて、羅漢那先比丘に問ひていはく、〈人、世間にありて悪を作ること百歳に至るまです。 死の時に臨みて仏を念ぜば、死して後に天に生るとは、われこの説を信ぜず〉と。 またいはく、〈一の生命を殺さば、死して泥梨のなかに入るとは、われまた信ぜず〉と。 比丘、王に問はく、〈もし人、小さき石を持ちて、水のなかに置在かば、石は浮ぶや没むや〉と。 王のいはく、〈石没む〉と。 那先のいはく、〈もしいま、百丈の大きなる石を持ちて、船の上に置在かば、没しなんやいなや〉と。 王のいはく、〈没まじ〉と。 那先のいはく、〈船のなかの百丈の大きなる石は、船によりて没することを得ず。 人、本の悪ありといへども、一時も仏を念ずれば、泥梨に没せずしてすなはち天上に生るること、なんぞ信ぜざらんや。 その小さき石の没するといふは、人の悪を作り、経法を知らずして、死して後にすなはち泥梨に入るがごとし。 なんぞ信ぜざらんや〉と。 王のいはく、〈善きかな、善きかな〉と。比丘のいはく、〈両の人ともに死して、一人は第七の梵天に生れ、一人は罽賓国に生るるがごとき、この二人は、遠近異なりといへども、死すればすなはち一時に到る。

一双の飛鳥ありて、一は高き樹の上にして止り、一は卑き樹の上に止らんに、両の鳥一時にともに飛ぶに、その影ともに到るがごときのみ。 愚人のごときは悪を作りて殃を得ること大なり、智人は悪を作りても殃を得ること小なるがごとし。 焼けたる鉄を地に在けるを、一人は焼けたりと知れり、一人は知らずして、両の人ともに取るに、しかも知らざるものは手を爛るること大にして、知れるものは少し壊るるがごとし。 悪を作ることもまたしかなり。 愚者はみづから悔ゆることあたはざるがゆゑに、殃を得ること大なり。 智者は悪を作れども不当なりと知るがゆゑに、日々にみづから悔ゆることをなせば、その罪小なり〉」と。 {以上}十念にもろもろの罪を滅して、仏の悲願の船に乗りて、須臾に往生することを得ることも、その理またしかるべし。

また『十疑』に釈していはく、「いま三種の道理をもつて校量するに、軽重は不定なり。 時節の久近・多少には在らず。 いかなるをか三となす。 一には心に在り、二には縁に在り、三には決定に在るなり。 〈心に在り〉といふは、罪を造る時はみづからの虚妄顛倒の心より生ずるも、念仏の心は、善知識に従ひて阿弥陀仏の真実の功徳名号を説くを聞く心より生ず。 一は虚、一は実なり。 あにあひ比ぶることを得んや。

たとへば、万年の暗き室に日の光しばらくも至りぬれば、しかも暗たちまちに除こるがごとし。 あに久しきよりこのかたの暗といひて、あへて滅せざることあらんや。 〈縁に在り〉といふは、罪を造る時には、虚妄痴暗の心の、虚妄の境界を縁ずる顛倒の心より生ずるも、念仏の心は、仏の清浄真実の功徳名号を聞きて、無上菩提を縁ずる心より生ず。 一は真、一は偽なり。 あにあひ比ぶることを得んや。

たとへば、人ありて毒の箭に中てられて、箭深く、毒ましくて、肌を傷り、骨に致るときに、一たび滅除薬の鼓の声を聞けば、すなはち毒の箭除こるがごとし。 あに深毒なるをもつてあへて出でざらんや。 〈決定に在り〉といふは、罪を造る時は有間心・有後心をもつてす。 仏を念ずる時は無間心・無後心をもつてし、つひにすなはち命を捨つるまで善心猛利なり。 ここをもつてすなはち生ず。

たとへば十囲の索は千夫も制せざれども、童子剣を揮ひて須臾に両段するがごとし。 また千年積める草に、大きさ豆ばかりの火をもつてこれを焚くに、小時にすなはち尽くるがごとし。 また人ありて、一生よりこのかた、十善業を修して天に生るることを得べきに、臨終の時に一念の決定の邪見を起さば、すなはち阿鼻地獄に堕するがごとし。 悪業の虚妄なるすら猛利なるをもつてのゆゑに、なほよく一生の善業を排ひて悪道に堕せしむ。 あにいはんや、臨終に猛利の心に仏を念ずる、真実無間の善業をや。 無始の悪業を排ふことあたはずして、浄土に生るることを得ずといはば、この処あることなからん」と。 {以上}

また『安楽集』(上)に、七の喩へをもつてこの義を顕せり。 一には少火の喩へ、前のごとし。 二には、躄なるものも他の船に寄載すれば、風帆の勢ひによりて一日に千里に至る。 三には、貧人、一端の物を獲てもつて王に貢るに、王慶びて重く賞するに、しばらくのあひだに、富貴、望みに盈つ。 四には、劣夫も、もし輪王の行に従へば、すなはち虚空に乗じて、飛騰自在なり。 五には十囲の索の喩へ、前のごとし。 六には、鴆鳥水に入れば魚蚌ことごとく斃ぬ。 みな犀角をもつてこれに触るれば、死したるもの還りて活る。 七には、黄鵠、〈子安子安〉と喚べば、還りて活る。 あに墳下の千齢決めて甦るべきことなしといふことを得べけんや。 一切の万法にみな自力・他力、自摂・他摂ありて、千開万閉無量無辺なり。 あに有礙の識をもつて、か無礙の法を疑ふことを得んや。 また五不思議のなかには仏法もつとも不可思議なり。 あに三界の繋業をもつて重しとなし、かの少時の念法を疑ひて軽しとなさんや」と。 {以上略抄}

いまこれに加へていはく、一には、栴檀の樹出成する時に、よく四十由旬の伊蘭の林を変じて、あまねくみな香美ならしむ。 二には、獅子の筋を用ゐて、もつて琴の絃となせば、音声一たび奏するに、一切の余の絃、ことごとくみな断壊しぬ。

三には、一斤の石汁、よく千斤の銅を変じて金となす。

四には、金剛堅固なりといへども、羖羊の角をもつてこれを扣けば、すなはち灌然として氷のごとく泮けぬ。[以上、滅罪の譬へ。]

五には、雪山に草あり、名づけて忍辱となす。 牛もし食すれば、すなはち醍醐を得。

六には、沙訶陀薬において、ただ見ることあるものは、寿を得ること無量なり。 乃至、念ずるものは宿命智を得。 七には、孔雀、雷の声を聞きてすなはち身あることを得。

八には、尸利沙昴星を見てすなはち菓実を出生す。

[以上、生善の譬へ。]九には、住水宝をもつてその身に瓔珞とすれば、深き水のなかに入れども、しかも没み溺せず。 十には、沙礫少なしといへども、なほ浮ぶことあたはず。 磐石大なりといへども、船に寄すればよく浮ぶ。[以上、総の譬へ。]

諸法の力用、思ひがたきことかくのごとし。 念仏の功力、これに准へて疑ふことなかれ。

 問ふ。 臨終の心念は、その力いくばくなればか、よく大事を成ずる。

答ふ。

その力、百年の業に勝れたり。 ゆゑに『大論』(大智度論)にいはく、「この心は時のあひだ少なしといへども、しかも心力猛利なること、火のごとく毒のごとくなれば、少なしといへどもよく大事を成ず。 これ死なんとする時の心も、決定して勇健なるがゆゑに、百歳の行力に勝れたり。 この後心を名づけて大心となす。

身およびもろもろの根を捨つるをもつて、事急なるがゆゑに。 人の、陣に入るに身命を惜しまざるを、名づけて健となすがごとし。 阿羅漢のこの身の着を捨つるがゆゑに阿羅漢の道を得るがごとし」と。 {以上}これによりて『安楽集』(上)にいはく、「一切衆生、臨終の時には、刀風形を解き、死苦来り逼むるに、大怖畏を生じて、乃至、すなはち往生することを得」と。

 問ふ。 深き観念の力、罪を滅することはしかるべし。 いかんぞ、仏号を称念するに無量の罪を滅する。 もししからば、指をもつて月を指すに、この指よく闇を破すべし。

答ふ。

綽和尚(道綽)釈していはく(安楽集・上意)、「諸法は万差なり。 一概すべからず。 おのづから名の法に即するあり。 おのづから名の法に異するあり。 名の法に即するといふは、諸仏・菩薩の名号、禁呪の音辞、修多羅の章句等のごとき、これなり。 禁呪の辞に、〈日出東方乍赤乍黄〉といはんに、たとひ酉亥に禁を行ずるも、患へるものまた愈ゆるがごとし。 また人ありて、狗に噛はるることを被るに、虎の骨を炙りてこれを熨せば、患へるものすなはち愈ゆるがごとし。 もし時に骨なくは、よく掌をげてこれを磨りて、口のなかに喚びて、〈虎来虎来〉といへば、患へるものまた愈えぬ。

あるいはまた人ありて、脚転筋を患はんに、木瓜の杖を炙りてこれを熨せば、患へるものすなはち愈えぬ。 もし木瓜なければ、手を炙りてこれを磨り、口に〈木瓜〉と喚べば、患へるものまた愈えぬ。 名の法に異するといふは、指をもつて月を指すがごとき、これなり」と。 {以上}『要決』(西方要決)にいはく、「諸仏は、願行をもつてこの果名を成ずれば、ただよく号を念ずるに、つぶさに衆徳を苞ねたり。 ゆゑに大善を成ず」と。 [以上、かの文に『浄名』(維摩経)・『成実』の文を引けり。 つぶさには上の助念方法のごとし。 ]

 問ふ。 もし下下品の五逆罪を造れるもの、十たび仏を念ずるによりて往生することを得といはば、いかんぞ、『仏蔵経』の第三にのたまはく、「大荘厳仏の滅後に四の悪比丘ありき。 第一義・無所有畢竟空の法を捨てて、外道尼健子の論を貪楽しき。 この人、命終して阿鼻地獄に堕ちて、仰ぎて臥し、伏きて臥し、左脇にして臥し、右脇にして臥すこと、おのおの九百万億歳、熱鉄の上にして焼き燃かれ、がれ爛れき。 死しをはりて、さらに灰地獄・大灰地獄・等活地獄・黒縄地獄に生れて、みな上のごとき歳数、苦を受く。 黒縄より死しては還りて阿鼻獄に生る。

かの、家と出家にして親近せしもの、ならびにもろもろの檀越、おほよそ六百四万億の人、この四の師とともに生じともに死して、大地獄にありてもろもろの焼煮を受けき。 劫尽きては他方の地獄に転生し、劫成じては還りてこの間の地獄に生る。 久々にして地獄を免れて人中に生れては、五百世、生れてより盲なり。 後に一切明王仏に値ひて出家して、十万億歳、勤修精進すること頭燃を救ふがごとくせしかども、順忍すら得ざりき。 いはんや、道果を得んや。 命終しては還りて阿鼻地獄に生れにき。 後に九十九億の仏に値ひても、順忍すら得ざりき。

なにをもつてのゆゑに。 仏の、深法を説きたまひしに、この人信ぜずして、破壊し違逆し、賢聖・持戒の比丘を破毀して、その過悪を出せる破法の因縁もつて、法としてまさにしかるべし」と。 [以上、略して抄す。 「四の比丘」とは苦岸比丘・薩和多比丘・将去比丘・跋難陀比丘なり。]十万億歳、頭燃を救ふがごとくせしも、なほ罪を滅せずして、還りて地獄に生じき。 いかんぞ、仏を念ずること一声・十声してすなはち罪を滅して、浄土に往生することを得るや。

答ふ。

感師(懐感)釈していはく(群疑論)、「仏を念ずるは、五の縁によるがゆゑに罪を滅す。 一には、大乗の心を発す縁。 二には、浄土に生ぜんと願ずる縁。 小乗の人は、十方の仏ましますと信ぜざるがゆゑに。 三には、阿弥陀仏の本願の縁。 四には、念仏の功徳の縁。 かの比丘は、ただ四念処の観をなせしがゆゑに。 五には、仏の威力をもつて加持したまふ縁なり。 このゆゑに、罪を滅して浄土に生ずることを得。 かの小乗の人は、しからざりき。 ゆゑに罪を滅することあたはず」と。 {略抄}

 問ふ。 もししからば、いかんぞ、『双巻経』(大経・上)に十念往生を説きて、「ただ五逆と誹謗正法をば除く」とのたまへる。

答ふ。

智憬等の諸師のいはく、「もしただ五逆を造れるものは、十念によるがゆゑに生ずることを得。 もし逆罪をも造り、また法をも謗れるものは、往生することを得ず」と。 あるがいはく、「五逆の不定業を造れるものは往生することを得るも、五逆の定業を造れるものは往生せず」と。

かくのごとく十五家の釈あり。 感法師(懐感)、諸師の釈を用ゐずして、みづからいはく(群疑論)、「もし逆を造らざる人は、念の多少を論ずるにあらず、一声・十声ともに浄土に生る。 もし逆を造れる人は、かならずすべからく十を満つべし。 一をも闕けつれば生ぜず。 ゆゑに〈除く〉といふなり」と。 {以上}いま試みに釈を加へば、余処にはあまねく往生の種類を顕すも、本願にはただ定生の人のみを挙ぐ。 ゆゑにいへり、「しからずは、正覚を取らじ」と。 余人の十念はさだめて往生することを得、逆者の一念はさだめて生ずることあたはず。 逆の十と余の一とは、みなこれ不定なり。 ゆゑに、願(第十八願)にはただ余人の十念を挙げて、余処には、兼ねて逆の十と余の一とを取れり。 この義いまだ決せず。 別に思択すべし。

 問ふ。 逆者の十念、なんがゆゑぞ不定なる。

答ふ。

宿善の有無によりて念力別なるがゆゑに。 また臨終と尋常と、念ずる時別なるがゆゑに。

 問ふ。 五逆はこれ順生の業なり。 報・時ともに定まれり。 いかんぞ滅することを得ん。

答ふ。

感師(懐感)、これを釈していはく(群疑論)、「九部不了の教のなかには、もろもろの不信業果の凡夫のために、密意をもつて説きて〈定報の業あり〉といふ。 もろもろの大乗の了義の教のなかには、〈一切の業ことごとくみな不定なり〉と説きたまふ。 『涅槃経』の第十八巻にのたまふがごとし。 耆婆、阿闍世王のために懺悔の法を説くに、〈罪滅することを得たり〉と。 またのたまはく(同)、〈臣、仏の説を聞くに、《一の善心を修すれば百種の悪を破す》と。 少しき毒薬のよく衆生を害するがごとし。 少善もまたしかり。 よく大悪を破す〉と。 また三十一にのたまはく(同)、〈善男子、もろもろの衆生ありて、業縁のなかにおいて心軽んじて信ぜず。 かれを度せんがためのゆゑにかくのごとき説をなしたまふ。 善男子、一切の作業は軽あり重あり。 軽重の二業にまたおのおの二あり。 一には決定、二には不決定なり〉と。 またのたまはく(同)、〈あるいは重業の、軽となし得べきことあり。 あるいは軽業の、重となし得べきことあり。 有智の人は、智慧の力をもつて、よく地獄の極重の業をして現世に軽く受せしむるも、愚痴の人は、現世の軽業を地獄に重く受く〉と。 阿闍世王は罪を懺悔しをはりて地獄に入らず。 鴦掘摩羅は阿羅漢を得たり。 『瑜伽論』に説かく、〈いまだ解脱を得ざるを、決定業と説き、すでに解脱を得たるを、不定業と名づく〉と。 かくのごとき等のもろもろの大乗経論には、五逆罪等を説きてみな不定と名づけて、ことごとく消滅することを得」と。 [転重軽受の相は、つぶさに『放鉢経』に出でたり。]

 問ふ。 引くところの文にのたまはく、「智者は重きを転じて軽くして受す」と。 下品生の人は、ただ十念しをはりてすなはち浄土に生るるは、いづれの処にしてか軽受する。

答ふ。

『双巻経』(大経・下)に、かの土の胎生のものを説きてのたまはく、「五百歳のうちに三宝を見たてまつらず、供養したてまつりて、もろもろの善本を修することを得ず。 しかもこれをもつて苦となす。 余の楽ありといへども、なほかの処をば楽はず」と。 {以上}これに准ずるに、七七日・六劫・十二劫、仏を見ず、法を聞かざる等をもつて、軽受の苦となすべきのみ。

 問ふ。 もし臨終に一たび仏の名を念ずるに、よく八十億劫のもろもろの罪を滅するがごとし、尋常の行者もまたしかるべきや。

答ふ。

臨終の心、力は強くしてよく無量の罪を滅す。 尋常に名を称するは、かれがごとくなるべからず。 しかも、もし観念成ずれば、また無量の罪を滅す。 もしただ名を称するのみならば、心の浅深に随ひてその利益を得ること、差別あるべし。 つぶさには前の利益門のごとし。

 問ふ。 なにをもつてか、浅心の念仏もまた利益ありとは知ることを得る。

答ふ。

首楞厳三昧経』にのたまはく、「大薬王あり、名を滅除といふ。 もし闘戦の時に、もつて鼓に塗りつれば、もろもろの、箭に射られ刀・矛に傷られたるもの、鼓の声を聞くことを得つれば、箭出でて毒除こるがごとし。 かくのごとく、菩薩の首楞厳三昧に住する時には、名を聞くことあるものは、貪・恚・痴の箭自然に抜け出でて、もろもろの邪見の毒みなことごとく除滅し、一切の煩悩また発動せず」と。 [以上、諸法の真如実相を観じ、凡夫の法と仏法と不二なりと見る、これを首楞厳三昧を修習すと名づく。 ]菩薩すでにしかり、いかにいはんや仏をや。 名を聞く、すでにしかり、いかにいはんや念ずるをや。 これによりて知りぬべし、たとひ浅心の念も利益虚しからず。

粗心妙果

【76】 第六に粗心の妙果といふは、 問ふ、もし菩提のために、仏において善をなすは、妙果を証得すといふこと、理かならずしかるべし。 もし人天の果のために善根を修せば、いかんぞ。

答ふ。

あるいは、あるいは、仏において善を修せば、遠近ありといへどもかならず涅槃に至る。 ゆゑに『大悲経』の第三に、仏、阿難に告げてのたまはく、「もし衆生ありて、生死三有の愛果に楽着して、仏の福田において善根を種うるもの、かくのごとき言をなさく、〈この善根をもつて、願はくはわれ般涅槃することなからん〉と。 阿難、この人もし涅槃せずといはば、この処あることなからん。 阿難、この人、涅槃を楽求せずといへども、しかも仏所にしてもろもろの善根を種ゑたれば、われ説く、この人はかならず涅槃を得ん」と。

 問ふ。 所作の業は願に随ひて果を感ず。 なんぞ、世報を楽ふに出世の果を得ん。

答ふ。

業果の理は、かならずしも一同ならず。 もろもろの善業をもつて仏道に回向するは、これすなはち作業なれば、心に随ひて転ず。 鶏狗の業をもつて天の楽を楽求するは、これすなはち悪見なれば、業をして転ぜしめず。 このゆゑに、仏においてもろもろの善業を修せば、意楽は異なりといへどもかならず涅槃に至る。 ゆゑにかの『経』(大悲経)に譬へを挙げてのたまはく、「たとへば、長者の、時によりて種を良田のなかに下し、時に随ひて漑ぎ灌ぎて、つねによく護持せん。 もしこの長者、余の時のうちに、かの田所に到りてかくのごとき言をなさく、〈咄なるかな、種子。 なんぢ種となることなかれ、生ずることなかれ、長ずることなかれ〉と。 しかも、かれ、種を種ゑつれば、かならず果をなすべし、果実なきにあらざらんがごとし」と。 {取意略抄}

 問ふ。 かれ、いづれの時においてか般涅槃を得ん。

答ふ。

たとひ、久々に生死に輪廻すといへども、善根亡ぜずしてかならず般涅槃を得。 ゆゑにかの『経』(大悲経)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈捕魚の師、魚を得んがためのゆゑに、大きなる池の水にありて、鉤餌を安置して、魚をして呑み食はしめつ。 魚呑食しをはりて、池のなかにありといへども、久しからずしてまさに出づべきがごとし。 {乃至}阿難、一切衆生、諸仏の所にして敬信を生ずることを得、もろもろの善根を種ゑ、布施を修行し、乃至、心を発して、一念の信をも得れば、また余の悪・不善業のために覆障せられて、地獄・畜生・餓鬼に堕在すといへども、{乃至}諸仏世尊、仏眼をもつてこの衆生の発心の勝れたるを観見したまふがゆゑに、地獄よりこれを抜きて出さしむ。 すでに抜き出しをはりて、涅槃の岸に置きたまふ〉」と。

 問ふ。 かくのごとき『経』(同)の意は、敬信せるをもつてのゆゑに、つひに涅槃を得るなり。 もししからば、ただ一たび聞くは、涅槃の因にあらざるべし。 すでにしからば、いかんぞ『華厳』の偈にのたまふ、

「もしもろもろの衆生ありて、いまだ菩提心を発さざれども、
一たび仏の名を聞くことを得れば、決定して菩提を成ず」と。

答ふ。

諸法の因縁は不可思議なり。 たとへば、孔雀の、雷震の声を聞きてすなはち身あることを得、また尸利沙果の、先より形質なけれども、昴星を見る時に、果すなはち出生して、長さ五寸に足るがごとし。 仏の名号によりて、すなはち仏因を結ぶことまたかくのごとし。 この微因よりつひに大果を著す。 かの陀樹の、芥子ばかりの種より枝葉を生じて、あまねく五百両の車を覆ふがごとし。 浅近の世法すらなほ思議しがたし。 いかにいはんや、出世の甚深の因果をや。 ただ信仰すべし。 疑念すべからず。

 問ふ。 染心をもつて如来を縁ずるものもまた利益ありや。

答ふ。

『宝積経』の第八に、密迹力士、寂意菩薩に告げていはく、「耆域医王、もろもろの薬を合集して、もつて薬草を取りて童子の形を作る。 端正殊妙にして、世の希有なり。 所作安諦にして、所有究竟し、殊異なること比びなし。 往来し、周旋し、住立し、安坐し、臥寐し、経行するに、欠漏するところなく、顕変するところの業あり。 あるいは大豪の国王・太子・大臣・百官・貴姓・長者ありて、耆域医王の所に来到するに、薬の童子を視て、ともに歌ひ戯れて、その顔色を相るに、病みな除こることを得て、すなはち安穏寂静にして、無欲なることを致す。 寂意、しばらく、その耆域医王の、世間を療治するに、その余の医師の及ぶことあたはざるところを観ぜよ。 かくのごとく、寂意、もし菩薩、法身を奉行すれば、たとひ衆生の、婬・怒・痴盛りにして、男女・大小、欲想をもつて慕楽し、すなはちともにあひ娯楽すれども、貪欲の塵労はことごとく休息することを得」と。 [陰種諸入なしと信解し観察するを、すなはち「奉行法身」と名づく。 ]奉行法身の菩薩すらなほしかり、いかにいはんや法身を証得せる仏をや。

 問ふ。 欲想をもつて縁ずるに、この利益あるがごとく、誹謗し悪厭するもまた益ありや。

答ふ。

すでに婬・怒・痴といへり。 明らけし、ただ欲想のみにはあらず。 また『如来秘密蔵経』の下巻にのたまはく、「むしろ如来において不善業をば起すとも、外道・邪見のものの所において供養を施作せざれ。 なにをもつてのゆゑに。 もし如来の所において不善業を起さば、まさに悔ゆる心ありて、究竟してかならず涅槃に至ることを得べし。 外道の見に随ふは、まさに地獄・餓鬼・畜生に堕つべし」と。

 問ふ。 この文は、すなはち因果の道理に違せり。 また衆生の妄心を増す。 いかんぞ、悪心をもつて大涅槃楽を得んや。

答ふ。

悪心をもつてのゆゑに三悪道に堕つ。 一たび如来を縁ずるをもつてのゆゑにかならず涅槃に至る。 このゆゑに因果の道理に違せず。 いはく、「かの衆生、地獄に堕する時に、仏において信を生じ、追悔の心を生ず。 これによりて、展転してかならず涅槃に至る」と。 [『大悲経』(意)に見えたり。 ]染心に如来を縁ずる利益すらなほかくのごとし。 いかにいはんや、浄心にして一たびも称せんをや。 仏の大恩徳、これをもつて知りぬべし。

 問ふ。 諸文に説くところの菩提・涅槃は、三乗のなかにおいて、これいづれの果ぞ。

答ふ。

初めには機に随ひて三乗の果を得といへども、究竟してはかならず無上の仏果に至る。 『法華経』にのたまふがごとし。

「十方仏土のなかには、ただ一乗の法のみあり。
もなくまたもなし。仏の方便の説をば除く」と。

また『大経』(大般涅槃経)に、如来の決定の説義を明かしてのたまはく、「一切衆生はことごとく仏性あり。 如来は常住にして変易あることなし」と。

またのたまはく(大般涅槃経)、「一切衆生は、さだめて阿耨菩提を得るがゆゑに、このゆゑに、われ、一切衆生はことごとく仏性ありと説く」と。 またのたまはく(同)、「一切衆生はことごとくみな心あり。 おほよそ心あるものは、さだめてまさに阿耨菩提を成ずることを得べし」と。

 問ふ。 なんがゆゑぞ、諸文の所説不同なる。 あるいは「一たび仏の名を聞かば、さだめて菩提を成ず」と説く。 あるいは「勤修すること、頭燃を救ふがごとくすべし」と説く。 また『華厳経』の偈にのたまはく、

「人の、他の宝を数ふるに、みづから半銭の分なきがごとく、
法において修行せざるは、多く聞くともまたかくのごとし」と。

答ふ。

もしすみやかに解脱せんと欲はば、勤めずは分なきがごとし。 もし永劫の因を期せば、一たび聞くともまた虚しからず。 このゆゑに、諸文は、理、相違せず。

諸行勝劣

【77】 第七に諸行の勝劣といふは、 問ふ、往生の業のなかには念仏を最となすも、余の業のなかにおいてもまた最となすや。

答ふ。

余の行法のなかにおいても、これまた最勝なり。 ゆゑに『観仏三昧経』に六種の譬へあり。

「一にはいはく、〈仏、阿難に告げたまはく、《たとへば、長者の、まさに死なんとすること久しからずして、もろもろの庫蔵をもつてその子に委付す。 その子、得をはりて、意に随ひて遊戯す。 たちまちに一時に、王難あるに値ひて、無量の衆賊、蔵の物を競ひ取る。 ただ一の金あり。 すなはちこれ閻浮檀那紫金にして、重さ十六両なり。 金鋌の長短また十六寸なり。

この金の一両の価は、余の宝の百千万両に直る。 すなはち穢らはしき物をもつて真金を纏ひ裹みて、泥団のなかに置きつ。 もろもろの賊見をはりて、これ金と識らずして、脚をもつて践みてしかも去りぬ。 賊去りて後に、財主、金を得て、心大きに歓喜せんがごとし。 念仏三昧もまたかくのごとし。 まさにこれを密蔵すべし》〉と。

二にはいはく、〈たとへば、貧人、王の宝印を執りて、逃げ走りて樹に上りぬ。 六兵これを追ふに、貧人、見をはりてすなはち宝印を呑みつ。 兵衆疾く至りて、樹をして倒僻せしむ。 貧人、地に落ちて、身体散壊しぬれども、ただ金印はあるがごとく、念仏の心印も壊れざること、またかくのごとし〉と。

三にはいはく、〈たとへば、長者の、まさに死なんとすること久しからずして、一の女子に告ぐらく、《われいま宝あり。 宝のなかに上れたるものなり。 なんぢ、この宝を得て、密蔵して堅からしめよ。 王をして知らしむることなかれ》と。 女、父が勅を受けて、摩尼珠およびもろもろの珍宝を持ちて、これを糞穢に蔵す。 室家の大小、みなまた知らず。 世の飢饉に値ひて、如意珠を持ちて、語に随ひて、すなはち百味飲食を雨らす。 かくのごとくして、種々に意に随ひて宝を得るがごとし。 念仏三昧の堅心不動なることまたかくのごとし〉と。

四にはいはく、〈たとへば、大きに旱して雨を得ることあたはず。 一の仙人ありて呪を誦す。 神通力のゆゑに、天より甘雨を降らし、地より涌泉を出すがごとし。 念仏を得たるものは善呪の人のごとし〉と。

五にはいはく、〈たとへば、力士、しばしば王法を犯して囹圄に幽閉せらるるに、逃げて海辺に到り、髻の明珠を解きて、持ちて船師を雇ひ、かの岸に到りて、安穏にして懼れなきがごとし。 念仏を行ずるものは大力士のごとし。 心王の鎖を挽れて、かの慧の岸に到る〉と。

六にはいはく、〈たとへば、劫尽きて大地洞然するに、ただ金剛山のみ摧破すべからずして、還りて本際に住するがごとく、念仏三昧もまたかくのごとし。 この定を行ずるものは、過去の仏の実際の海のなかに住す〉」と。{以上略抄}

また『般舟経』の「問事品」に念仏三昧を説きてのたまはく、「つねにまさに習持し、つねにまさに守りて、また余の法に随はざるべし。 もろもろの功徳のなかに最尊第一なり」と。{以上}

また不退転の位に至るに、難易の二の道あり。 易行道といふはすなはちこれ念仏なり。 ゆゑに『十住婆沙』の第三にいはく、「世間の道に難あり易あり。 陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。 菩提の道もまたかくのごとし。

あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて、疾く阿惟越致に至るものあり。{乃至}阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称して一心に念ずれば、また不退転を得」と。{以上}文のなかに、過去・現在の一百余の仏、弥勒・金剛蔵・浄名・無尽意・跋陀婆羅・文殊・妙音・師子吼・香象・常精進・観世音・勢至等の一百余の大菩薩を挙げたり。 そのなかに広く弥陀仏を讃ぜり。

もろもろの行のなかにおいて、ただ念仏の行のみ修しやすくして、上位を証す。 知りぬ、これ最勝の行なりといふことを。 また『宝積経』の九十二にのたまはく、「もし菩薩ありて、多く衆務を営み、七宝の塔を造ること、三千大千世界に遍満せんに、かくのごとき菩薩は、われをして歓喜をなさしむることあたはず。 またわれを供養し恭敬るにもあらず。 もし菩薩ありて、波羅蜜相応の法において、乃至、一の四句の偈を受持し、読誦し、修行して、人のために演説せん。 この人は、すなはちわれを供養しつとなす。

なにをもつてのゆゑに。 もろもろの仏の菩提は、多聞より生ず。 衆務よりはしかも生ずることを得ず。 {乃至}もし一閻浮提の、営事の菩薩は、一の読誦・修行・演説の菩薩の所において、まさに親近し供養し承事すべし。 もし一閻浮提の、読誦・修行・演説のもろもろの菩薩等は、一の勤修禅定の菩薩において、またまさに親近し供養し承事すべし。 かくのごとき善業をば、如来随喜し、如来悦可したまふ。 もし勤修智慧の菩薩において承事し供養せば、まさに無量の福徳の聚を獲べし。 なにをもつてのゆゑに。 智慧の業は無上最勝にして、一切の三界の所行に出過すればなり」と。 {云々}『大集』の「月蔵分」の偈にのたまはく、

「もし人、百億の諸仏の所にして、多くの歳数においてつねに供養せんに、
もしよく七日、闌若にありて、を摂して定を得ば、福かれよりも多し。
{乃至}
閑静無為なるは仏の境界なり。かしこにおいてよく浄菩提を得。
もし人、かの住禅のものを謗らば、これをもろもろの如来を毀謗すと名づ
く。
もし人、塔を破ること多百千、および百千の寺を焚焼せんに、
もし住禅のものを毀謗することあらば、その罪はなはだ多きこと、かれよ
り過ぎたり。
もし住禅のものに、飲食・衣服および湯薬を供養することあらば、この人
無量の罪を消滅して、また三悪道に堕せじ。
このゆゑにわれいまあまねくなんぢに告ぐ、仏道を成ぜんと欲はばつねに
禅にあれ。
もし阿蘭若に住することあたはずは、まさにかの人を供養すべし」と。{以上}

汎爾の禅定すら、なほすでにかくのごとし。いはんや、念仏三昧はこれ王三昧なるをや。

 問ふ。 もし禅定の業は読誦・解義等に勝れたらば、いかんぞ、『法華経』の「分別功徳品」に、八十万億那由他劫の所修の前五波羅蜜の功徳をもつて、『法華経』を聞きて一念信解する功徳に校量して、百千万億分の一分なりとする。 いかにいはんや、広く他のために説かんをや。

答ふ。

これらのもろもろの行に、おのおの浅深あり。 いはく、偏円の教、差別あるがゆゑに。 もし当教にて論ぜば、勝劣は前のごとし。 もし諸教を相対せば、偏教の禅定は円教の読誦事業に及ばず。 『大集』と『宝積』とは一教に約して論じ、『法華』の校量は偏円相望す。 このゆゑに諸文の義、相違せず。 念仏三昧もまたかくのごとし。 偏教の三昧は当教に勝れたりとなす。 円人の三昧はあまねく諸行に勝れたり。 また定に二あり。 一は慧相応の定。 これを最勝なりとなす。 二は暗禅。 いまだ勝れたりとなすべからず。 念仏三昧はこれ初めの摂なるべし。

信毀因縁

【78】 第八に信毀の因縁といふは、『般舟経』にのたまはく、「独り一仏の所にして功徳を作るのみにあらず。 もしは二、もしは三、もしは十においてせるにもあらず。 ことごとく百仏の所にしてこの三昧を聞き、かへりて後世の時にこの三昧を聞くものなり。 経巻を書学し誦持して、最後に守ること一日一夜すれば、その福計るべからず。 おのづから阿惟越致に致り、願ずるところのものを得ん」と。

 問ふ。 もししからば、聞くものは決定して信ずべし。 なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。

無量清浄覚経』(四)にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。 それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。 これいまだ解脱を得ざるなり」と。 {略抄}

また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。 {乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。 たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。 {以上}まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。 薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。 烏豆聚に一の緑き豆あらんがごとし。 ただしかれ聞くといへどもしかも信解せず。 これはすなはち薄徳の致すところなるのみ。

 問ふ。 仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。 いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。

この義、知りがたし。 試みにこれを案じていはく、衆生の善悪に四の位の別あり。 一には、悪用偏増なり。 この位には法を聞くことなし。 『法華』(意)にのたまふがごとし、「増上慢の人、二百億劫つねに法を聞かず」と。 二には、善用偏増なり。 この位にはつねに法を聞く。 地・住以上の大菩薩等のごときなり。 三には、善悪の交際。 いはく、凡を捨てて聖に入らんとする時なり。 この位のなかには、一類の人ありて法を聞くことはなはだ難し。 たまたま聞きつればすなはち悟る。 常啼菩薩須達が老女等のごとし。 あるいは魔のために障へられ、あるいはみづからの惑ひのために障へられて、聞見を隔つといへども、久しからずしてすなはち悟る。 四には、善悪容預なり。 この位には、善悪は同じくこれ生死流転の法なるがゆゑに、多く法を聞くこと難し。 悪増にあらざるがゆゑに、一向に無聞なるにあらず。 交際するにあらざるがゆゑに、聞くといへども巨益なし。 六趣・四生に蠢々たる類、これなり。 ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。 これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

 問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。

『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

 問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。

まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。 『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。 このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。 {以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。 しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。 『清浄覚経』(平等覚経・三)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。 しかも諸師の所釈、繁く出すことあたはず。

 問ふ。 仏智と等いふは、その相いかんぞ。

答ふ。

憬興師は、『仏地経』の五法をもつて、いま五智と名づけたり。 いはく、清浄法界を仏智と名づけ、大円鏡等の四をもつて、次いでのごとく不思議等の四に当つるなり。 玄一師は、仏智は前のごとくなるも、後の四智をもつて、逆に成事智等の四に対するなり。 余の異解あるも、これを煩はしくすべからず。

助道資縁

【79】 第九に助道の資縁といふは、問ふ、凡夫の行人はかならず衣食を須ゐる。 これ小縁なりといへども、よく大事を弁ず。 裸・餧にして安からずは、道法いづくんぞあらん。

答ふ。

行者に二あり。 いはく、家と出家となり。 その在家の人は、家業自由にして、餐飯・衣服あり。 なんぞ念仏を妨げん。 『木槵経』の瑠璃王の行のごとし。 その出家の人にまた三類あり。 もし上根のものは、草座・鹿皮、一菜・一菓なり。 雪山の大士のごとき、これなり。 もし中根のものは、つねに乞食糞掃衣なり。 もし下根のものは、檀越の親施なり。 ただ少し得るところあれば、すなはち足るを知る。 つぶさには『止観』の第四のごとし。 いはんやまた、もし仏弟子にして、もつぱら正道を修して、貪求するところなきものは、自然に資縁を具す。

『大論』(大智度論)にいふがごとし。 「たとへば、比丘の貪求するものは供養を得ず、貪求するところなきはすなはち乏しく短なきところなきがごとく、心もまたかくのごとし。 もし分別して相を取れば、すなはち実法を得ず」と。 また『大集』の「月蔵分」のなかに、欲界の六天・日月星宿・天竜八部、おのおの仏前にして誓願を発してのたまはく、「もし仏の声聞の弟子にして、法に住し、法に順じ、三業相応して修行するものをば、われらみなともに護持し養育し、所須を供給して、乏しきところなからしめん。 もしまた世尊の声聞の弟子にして、積聚するところなからんをば護持し養育せん」と。 またのたまはく(大集経)、「もし世尊の声聞の弟子にして、積聚に住し、乃至、三業と法と相応せざるものをば、またまさに棄捨すべし、また養育せじ」と。

 問ふ。 凡夫はかならずしも三業相応せず。 もし欠漏あらば、依怙なかるべし。

答ふ。

かくのごとき問難は、これすなはち懈怠にして道心なきものの致すところなり。 もしまことに菩提を求め、浄土を欣ふものは、むしろ身命をば捨つとも、あに禁戒を破らんや。 一世の勤労をもつて、永劫の妙果を期すべし。 いはんやまた、たとひ戒を破るといへどもその分なきにあらず。 同経に、仏ののたまふがごとし。

「〈もし衆生ありて、わがために出家して、鬚髪を剃除し袈裟を被服せば、たとひ戒を持たずとも、かれらはことごとくすでに涅槃の印のために印せられたり。 もしまた出家して、戒を持たざるものを、非法をもつて悩乱をなし、罵辱毀訾し、手に刀杖をもつて打ち縛り斫き截りて、もしは衣鉢を奪ひ、および種々の資生の具を奪ふことあるものは、この人はすなはち三世の諸仏の真実の報身を壊り、すなはち一切の天・人の眼目を挑るなり。 この人は、諸仏の所有の正法、三宝の種を隠没せんと欲するがためのゆゑに、もろもろの天・人をして、利益を得ずして地獄に堕せしめんがゆゑに、三悪道を増長し盈満せしむるがためのゆゑに〉と。 {云々}

その時に、また一切の天・竜、乃至、一切の富単那人・非人等ありて、みなことごとく合掌して、かくのごとき言をなさく、〈われら、仏の一切の声聞の弟子において、乃至、もしはまた禁戒を持せずとも、鬚髪を剃除し袈裟の片を着たるものをば、師長の想をなして護持し養育して、もろもろの所須を与へて、乏少なることなからしめん。 もし余の天・竜、乃至、迦富単那等の、その悩乱をなし、乃至、悪心にして眼をもつてこれを視ば、われらことごとくともに、かの天・竜・富単那等の、所有のもろもろの相をして欠減し醜陋ならしむ。 かれをして、またわれらとともに住しともに食することを得ざらしむ。 また同処にして戯笑することを得じ。 かくのごとくにして擯罰せん〉」と。{以上取意}

またのたまはく(大集経)、「その時に、世尊、上首弥勒および賢劫のうちの一切の菩薩摩訶薩に告げてのたまはく、〈もろもろの善男子、われ、昔、菩薩の道を行ぜし時に、かつて過去の諸仏如来においてこの供養をなし、この善根をもつてわがために三菩提の因となせり。

われ、いまもろもろの衆生を憐愍するがゆゑに、この果報をもつて分ちて三分となし、一分は留めてみづから受け、第二の分をば、わが滅後において、禅解脱三昧と堅固に相応する声聞に与へて、乏しきところなからしめ、第三の分をば、かの破戒にして、経典を読誦し、声聞に相応して、正法・像法に、頭を剃り袈裟を着たるものに与へて、乏しきところなからしめん。

弥勒、われ、いままた三業相応のもろもろの声聞衆、比丘・比丘尼、優婆塞・優婆夷をもつて、なんぢが手に寄付す。 乏しく少なく孤独にして終らしむることなかれ。 および、正法・像法に、禁戒を毀破して、袈裟を着たるものをも、なんぢが手に寄付す。 かれらをして、もろもろの資具において、乏少にして終らしむることなかれ。 また旃陀羅王ありて、ともにあひ悩害し、身心に苦を受けしむることなかれ。 われ、いままたかのもろもろの施主をもつて、なんぢが手に寄付す〉」と。{以上}

破戒すらなほしかり。 いかにいはんや、持戒をや。 声聞すらなほしかなり。 いかにいはんや、大心を発してまことに念仏せんをや。

 問ふ。 もし破戒の人もまた天・竜のために護念せられなば、いかんぞ『梵網経』(意)に、「五千の鬼神、破戒の比丘の跡を払ふ」とのたまひ、『涅槃経』(意)に、「国王・群臣および持戒の比丘は、まさに破戒のものを苦治し駆遣し呵嘖すべし」とのたまふや。

答ふ。

もし理のごとく苦治せば、すなはち仏教に順ず。 もし非理にして悩乱せば還りて聖旨に違す。 ゆゑに相違せず。 「月蔵分」(大集経)に、仏ののたまへるがごとし。 「国王・群臣は、出家のものの、大罪業たる大殺生・大偸盗・大非梵行・大妄語および余の不善をなすを見ては、かくのごとき等の類をば、ただまさに法のごとく、国土・城邑・村落を擯出して、寺にあることを聴さざれ。 また僧の事業を同ずることを得しめじ。 利養の分、ことごとくともに同ぜしめざるべし。 鞭打することを得じ。 もし鞭打せば、理、応ぜざるところなり。 また口に罵辱すべからず。 一切、その身に罪を加ふべからず。 もしことさらに法に違して、罪を讁めば、この人はすなはち解脱において退落し、必定して阿鼻地獄に帰趣せん。 いかにいはんや、仏のために出家して、つぶさに戒を持つものを鞭打せんをや」と。{略抄}

 問ふ。 人間の擯治は、差別しかるべし。 非人の行は、なほいまだ決了せず。 『梵網経』には一向に跡を払ふ、『月蔵経』には一向に供給す。 なんぞたちまちに乖角せる。

答ふ。

罪福の旨を知らんがために、かならずすべからく人の行を決すべし。 かならずしも非人の所行を決すべからず。 もしは制、もしは開、おのおの巨益をなす。 あるいはまた、人の意楽の不同なるがごとく、非人の願楽もまた不同なるのみ。 学者、決すべし。

 問ふ。 論のちなみに論をなさん、かの犯戒の出家の人において供養し悩乱せば、いくばくの罪福を得るや。

答ふ。

『十輪経』の偈にのたまはく、

「恒河沙の仏の、解脱幢相衣を被たり、
これにおいて悪心を起さば、さだめて無間獄に堕ちなん」と。[袈裟を名づけ
て「解脱幢衣」となす。]

「月蔵分」(大集経)にのたまはく、「もしかれを悩乱せば、その罪万億の仏身より血を出す罪よりも多し。 もしこれを供養せば、なほ無量阿僧祇の大福徳聚を得ん」と。 {取意}

 問ふ。 もししからば、一向にこれを供養すべし。 なんぞこれを治して大きなる罪報を招くべけんや。

答ふ。

もしその力ありてこれを苦治せずは、かれまた罪過を得。 これ仏法の大きなる怨なり。 ゆゑに『涅槃経』の第三にのたまはく、「持法の比丘は、戒を破り正法を壊することあるものを見ば、すなはち駆遣し、呵嘖し挙処すべし。 もし善比丘、壊法のものを見て、置きて、呵嘖し駆遣し挙処せずは、まさに知るべし、この人は仏法のなかの怨なり。 もしよく駆遣し、呵嘖し挙処せば、これわが弟子なり、真の声聞なり。 {乃至}もろもろの国王および四部の衆は、まさにもろもろの学人等を勧励して、増上の戒・定・智慧を得しむべし。 もしこの三品の法を学せずして、懈怠破戒にして正法を毀るものあらば、王者・大臣、四部の衆、まさに苦治すべし」と。 またのたまはく(同)、「もし比丘ありて、禁戒を持すといへども、利養のためのゆゑに、破戒のものと坐し起し行じ来し、ともにあひ親附して、その事業を同じくせば、これを破戒と名づく。 {乃至}

もし比丘ありて、阿蘭若処にありて、諸根利ならず、闇鈍にして少欲にして乞食し、説戒の日および自恣の時に、もろもろの弟子を教へて清浄に懺悔せしめ、弟子にあらざるもの、多く禁戒を犯せるを見ては、教へて清浄に懺悔せしむることあたはずして、すなはちともに説戒し自恣する、これを愚痴僧と名づく」と。 {以上略抄}あきらかに知りぬ、もしは過ぎ、もしは及ばざるは、みなこれ仏勅に違しぬ。 そのあひだの消息すべて意を得るにあり。

助道人法

【80】 第十に助道の人法といふは、略して三あり。 一には、すべからく明師の、内外の律に善くして、よく妨障を開除するに、恭敬し承習すべし。 ゆゑに『大論』(大智度論)にいはく、「雨の堕つるに、山の頂に住まらずしてかならず下れる処に帰するがごとし。 もし人、驕心をもつてみずから高くすれば、すなはち法水入らず。 もし善師を恭敬すれば、功徳これに帰す」と。 二には、同行の、ともに嶮を渉るがごときを須ゐる。 すなはち臨終に至るまで、たがひにあひ勧励せよ。 ゆゑに『法華』にのたまはく、「善知識はこれ大の因縁なり」と。 また「阿難のいはく、〈善知識はこれ半の因縁なり〉と。 仏ののたまはく、〈しからず、これ全の因縁なり〉」(付法蔵因縁伝・意)と。 三には、念仏相応の教文において、つねに受持し披読し習学すべし。 ゆゑに『般舟経』の偈にのたまはく、

「この三昧経は真の仏語なり。たとひ遠方にこの経ありと聞かば、
道法を用ゐるがゆゑに往きて聴受し、一心に諷誦して忘捨せざれ。
たとひ往きて求むるに聞くことを得ずとも、その功徳の福は尽すべからず。
よくその徳義を称量することなからん。いかにいはんや聞きをはりてす
なはち受持せんをや」と。

[四十里・百里・千里をもつて「遠方」となす。]

 問ふ。 なんらの教文か、念仏に相応する。

答ふ。

前に引くところの、西方の証拠のごときは、みなこれその文なり。 しかも、まさしく西方の観行ならびに九品の行果を明かすことは、『観無量寿経』[一巻、畺良耶舎の訳。 ]にはしかず。弥陀の本願ならびに極楽の細相を説くことは、『双巻無量寿経』[二巻、康僧鎧の訳。]にはしかず。 諸仏の相好ならびに観相の滅罪を明かすことは、『観仏三昧経』[十巻あるいは八巻、覚賢の訳。]にはしかず。 色身・法身の相ならびに三昧の勝利を明かすことは、『般舟三昧経』[三巻あるいは二巻、支婁迦の訳。]『念仏三昧経』[六巻あるいは五巻、功徳直、玄暢とともに訳す。]にはしかず。

修行の方法を明かすことは、上の三の経ならびに『十往生経』[一巻]『十住毘婆沙論』[十四巻あるいは十二巻、龍樹の造、羅什の訳。]にはしかず。

結偈総説は、『無量寿経優婆提舎願生の偈』[あるいは『浄土論』と名づく。 あるいは『往生論』と名づく。 世親の造、菩提留支の訳、一巻。]にはしかず。 日々の読誦は、『小阿弥陀経』[一巻五紙、羅什の訳。]にはしかず。 修行の方法は、多く『摩訶止観』[十巻]および善導和尚の『観念法門』ならびに『六時の礼讃』[おのおの一巻。]にあり。

問答料簡は、多く天台(智顗)の『十疑』[一巻]道綽和尚の『安楽集』[二巻]慈恩(窺基)の『西方要決』[一巻]懐感和尚の『群疑論』[七巻]にあり。 往生の人を記することは、多く迦才師の『浄土論』[三巻]ならびに『瑞応伝』[一巻]にあり。 その余は多しといへども、要はこれに過ぎず。

要集造由

 問ふ。 行人みづからかのもろもろの文を学すべし。 なんがゆゑぞ、いま労しくこの文(往生要集)を著すや。

答ふ。

あに前にいはずや。 予がごときものは、広文を披きがたし。 ゆゑにいささかにその要を抄すと。

 問ふ。 『大集経』(意)にのたまはく、「あるいは経法を抄写するに、文字を洗脱し、あるいは他の法を損壊し、あるいは他の経を闇蔵す。 この業縁によりて、いま盲の報を得たり」と。 {云々}しかるをいま経論を抄するに、あるいは多くの文を略し、あるいは前後を乱る。 これ生盲の因なるべし。 なんぞ自害することをなさんや。

答ふ。

天竺(印度)・震旦(中国)の論師・人師、経論の文を引くに、多く略して意を取る。 ゆゑに知りぬ、経の旨を錯乱するはこれ盲の因たるも、文字を省略するはこれ盲の因にあらず。 いはんや、いま抄するところは、多くは正文を引き、あるいはこれ諸師の所出の文なり。 繁文を出すことあたはざるものに至りては、注して、あるいは「乃至」といひ、あるいは「略抄」といひ、あるいは「取意」といへり。 これすなはち学者をして本文を勘へやすからしめんと欲してなり。

 問ふ。 引くところの正文はまことに信を生ずべし。 ただしばしばわたくしの詞を加す。 いかんぞ人の謗りを招かざらんや。

答ふ。

正文にあらずといへども、理をば失せず。 もしなほ謬ることあらば、いやしくもこれを執せず。 見るもの、取捨して正理に順ぜしめよ。 もしひとへに謗りをなさば、またあへて辞せず。 『華厳経』の偈にのたまふがごとし。

もし菩薩の、種々の行を修行するを見て、
善・不善の心を起すことあるを、菩薩みな摂取す」と。{以上}

まさに知るべし、謗りをなすもまたこれ結縁なり。 われもし道を得ば、願はくはかれを引摂せん。 かれもし道を得ば、願はくはわれを引摂せよ。 すなはち菩提に至るまで、たがひに師弟とならん。

 問ふ。 論のちなみに論をなさん、多日、筆を染めて身心を劬労す。 その功なきにあらじ。 なんの事をか期するや。

答ふ。

このもろもろの功徳によりて、願はくは命終の時に、
弥陀仏の無辺の功徳の身を見たてまつることを得ん。
われおよび余の信者、すでにかの仏を見たてまつりをはらば、
願はくは離垢の眼を得て、無上菩提を証せん。

往生要集 巻下

【81】 永観二年甲申冬十一月、天台山延暦寺首楞厳院にして、この文を撰集す。 明くる年の夏四月に、その功を畢ふ。 一の僧ありて夢みらく、毘沙門天、両の丱童を将て、来り告げていはく、「源信が撰せるところの『往生集』は、みなこれ経論の文なり。

一見・一聞の倫は、無上菩提を証すべし。 すべからくして一偈を加へて、広く流布せしむべし」と。 他日に夢を語る。 ゆゑに偈を作りていはく、

すでに聖教および正理によりて、
衆生を勧進して極楽に生ぜしむ。
乃至展転して一たびも聞くもの、
願はくはともにすみやかに無上覚を証せん。