「自信教人信」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
1行目: | 1行目: | ||
『往生礼讃』の文。 | 『往生礼讃』の文。 | ||
+ | {{Inyou| | ||
:<kana>自信教人信(じしん-きょうにんしん)</kana> <kana>難中転更難(なんちゅう-てんきょうなん)</kana> | :<kana>自信教人信(じしん-きょうにんしん)</kana> <kana>難中転更難(なんちゅう-てんきょうなん)</kana> | ||
::みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。 | ::みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。 | ||
:<kana>大悲伝普化(だいひ-でんふけ)</kana> <kana>真成報仏恩(しんじょう-ほうぶっとん)</kana> | :<kana>大悲伝普化(だいひ-でんふけ)</kana> <kana>真成報仏恩(しんじょう-ほうぶっとん)</kana> | ||
::大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。([[往生礼讃 (七祖)#P--676|往生礼讃 P.676]]) | ::大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。([[往生礼讃 (七祖)#P--676|往生礼讃 P.676]]) | ||
+ | }} | ||
御開山は、智昇法師の『集諸経礼懺儀』を引文され、 | 御開山は、智昇法師の『集諸経礼懺儀』を引文され、 | ||
+ | {{Inyou| | ||
:自信教人信 難中転更難 | :自信教人信 難中転更難 | ||
::みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きなかにうたたまた難し。 | ::みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きなかにうたたまた難し。 | ||
:大悲'''弘'''普化 真成報仏恩 | :大悲'''弘'''普化 真成報仏恩 | ||
::大悲'''弘く'''あまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る。([[信巻末#P--261|信巻 P.261]],[[化巻本#P--411|化巻 P.411]]) | ::大悲'''弘く'''あまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る。([[信巻末#P--261|信巻 P.261]],[[化巻本#P--411|化巻 P.411]]) | ||
− | + | }} | |
と、[[大悲]]は伝えるものではなく、大悲そのもののはたらきによって、弘(ひろ)く衆生を[[化益]]するものだとされておられる。浄土真宗(教団の意)は、伝道教団といわれ、特に蓮如さんのご教化によって一大教団となった。その意からすれば「大悲伝普化(大悲をもつて伝へてあまねく化する)」の「伝」が親しいのだが御開山はあえて『礼懺儀』を引いて、大悲弘普化(大悲弘くあまねく化する)とされおられる。これは御開山が、 | と、[[大悲]]は伝えるものではなく、大悲そのもののはたらきによって、弘(ひろ)く衆生を[[化益]]するものだとされておられる。浄土真宗(教団の意)は、伝道教団といわれ、特に蓮如さんのご教化によって一大教団となった。その意からすれば「大悲伝普化(大悲をもつて伝へてあまねく化する)」の「伝」が親しいのだが御開山はあえて『礼懺儀』を引いて、大悲弘普化(大悲弘くあまねく化する)とされおられる。これは御開山が、 | ||
:浄土真宗に帰すれども | :浄土真宗に帰すれども | ||
21行目: | 24行目: | ||
: 苦海をいかでかわたるべき ([[正像末和讃#no98|正像 P.617]]) | : 苦海をいかでかわたるべき ([[正像末和讃#no98|正像 P.617]]) | ||
などとされておられるように、自らを「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」([[証巻#P--307|証巻 P.307]])とみておられたからであろう。いわゆる「機の深信」の立場に立っておられたのである。それはまた『歎異鈔』で、 | などとされておられるように、自らを「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」([[証巻#P--307|証巻 P.307]])とみておられたからであろう。いわゆる「機の深信」の立場に立っておられたのである。それはまた『歎異鈔』で、 | ||
+ | {{Inyou| | ||
:親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。 ([[歎異抄#P--835|歎異抄 P.835]]) | :親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。 ([[歎異抄#P--835|歎異抄 P.835]]) | ||
− | + | }} | |
− | + | と、唯円が御開山の仰せとして語っているように、自ら師としての「教位」に立つことを否定し、御同朋・御同行 | |
+ | として阿弥陀如来の本願を聞信する「聞位」に立たれたからであった。「[[教]]」には「教者聖人被<sub>レ</sub>下之言也(教とは、聖人下にかむらしむ言なり)」とある意からも、自らを一介の凡愚として、教の位に立つことを否定されたのであろう。<br /> | ||
覚如上人が『口伝鈔』で、 | 覚如上人が『口伝鈔』で、 | ||
+ | {{Inyou| | ||
:説導も涯分いにしへに はづべからずといへども、人師・戒師停止すべきよし、聖人の御前にして誓言発願をはりき。([[口伝鈔#P--873|口伝鈔 P.873]]) | :説導も涯分いにしへに はづべからずといへども、人師・戒師停止すべきよし、聖人の御前にして誓言発願をはりき。([[口伝鈔#P--873|口伝鈔 P.873]]) | ||
::〔現代語〕:説法も巧みで、いにしえの名説法者に劣らないほどでしたが、「私は生涯、聞法者として終始し、師として弟子に法門の伝授を行ったり、人に戒律を授ける戒師の地位についたりはいたしません」と法然聖人の前でお誓になりました。 | ::〔現代語〕:説法も巧みで、いにしえの名説法者に劣らないほどでしたが、「私は生涯、聞法者として終始し、師として弟子に法門の伝授を行ったり、人に戒律を授ける戒師の地位についたりはいたしません」と法然聖人の前でお誓になりました。 | ||
+ | }} | ||
と、御開山は、法然聖人の前で人の師とはならない、と誓われたと記しておられるのも、その意であろう。<br /> | と、御開山は、法然聖人の前で人の師とはならない、と誓われたと記しておられるのも、その意であろう。<br /> | ||
御開山は「現生十種の益」([[信巻末#P--251|信巻 P.251]])で「常行大悲の益」をあげておられる。この常行大悲の益は、『安楽集』で『大悲経』を引いて、 | 御開山は「現生十種の益」([[信巻末#P--251|信巻 P.251]])で「常行大悲の益」をあげておられる。この常行大悲の益は、『安楽集』で『大悲経』を引いて、 | ||
+ | {{Inyou| | ||
:いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく。([[信巻末#P--260|信巻引文 P.260]]) | :いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく。([[信巻末#P--260|信巻引文 P.260]]) | ||
+ | }} | ||
と、自らが、なんまんだぶを称え実践することが「自信教人信……大悲弘普化 真成報仏恩」という言葉の意味であるとされたのであろう。御開山は大行の「浄土真実の行」である〔なんまんだぶ〕を、 | と、自らが、なんまんだぶを称え実践することが「自信教人信……大悲弘普化 真成報仏恩」という言葉の意味であるとされたのであろう。御開山は大行の「浄土真実の行」である〔なんまんだぶ〕を、 | ||
+ | {{Inyou| | ||
:しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。([[行巻#P--141|行巻 P.141]]) | :しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。([[行巻#P--141|行巻 P.141]]) | ||
+ | }} | ||
とされておられた。<br /> | とされておられた。<br /> | ||
浄土真宗には「後ろ姿で布教する」という言葉がある。後ろ姿とは、自らが如来に[[信順]]している信心の実践(なんまんだぶ)が大悲弘くあまねく化する相であった、これは自らがなんまんだぶを称えるという常行大悲の実践が、やがて『論註』の、 | 浄土真宗には「後ろ姿で布教する」という言葉がある。後ろ姿とは、自らが如来に[[信順]]している信心の実践(なんまんだぶ)が大悲弘くあまねく化する相であった、これは自らがなんまんだぶを称えるという常行大悲の実践が、やがて『論註』の、 | ||
+ | {{Inyou| | ||
:同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。([[証巻#P--310|証巻で引文 P.310]]) | :同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。([[証巻#P--310|証巻で引文 P.310]]) | ||
+ | }} | ||
という御同朋・御同行の世界を開いていくのであった。 | という御同朋・御同行の世界を開いていくのであった。 | ||
2017年12月2日 (土) 00:26時点における版
『往生礼讃』の文。
自信教人信 難中転更難 - みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。
大悲伝普化 真成報仏恩 - 大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。(往生礼讃 P.676)
御開山は、智昇法師の『集諸経礼懺儀』を引文され、
と、大悲は伝えるものではなく、大悲そのもののはたらきによって、弘(ひろ)く衆生を化益するものだとされておられる。浄土真宗(教団の意)は、伝道教団といわれ、特に蓮如さんのご教化によって一大教団となった。その意からすれば「大悲伝普化(大悲をもつて伝へてあまねく化する)」の「伝」が親しいのだが御開山はあえて『礼懺儀』を引いて、大悲弘普化(大悲弘くあまねく化する)とされおられる。これは御開山が、
- 浄土真宗に帰すれども
- 真実の心はありがたし
- 虚仮不実のわが身にて
- 清浄の心もさらになし (正像 P.617)
- 小慈小悲もなき身にて
- 有情利益はおもふまじ
- 如来の願船いまさずは
- 苦海をいかでかわたるべき (正像 P.617)
などとされておられるように、自らを「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」(証巻 P.307)とみておられたからであろう。いわゆる「機の深信」の立場に立っておられたのである。それはまた『歎異鈔』で、
- 親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。 (歎異抄 P.835)
と、唯円が御開山の仰せとして語っているように、自ら師としての「教位」に立つことを否定し、御同朋・御同行
として阿弥陀如来の本願を聞信する「聞位」に立たれたからであった。「教」には「教者聖人被レ下之言也(教とは、聖人下にかむらしむ言なり)」とある意からも、自らを一介の凡愚として、教の位に立つことを否定されたのであろう。
覚如上人が『口伝鈔』で、
- 説導も涯分いにしへに はづべからずといへども、人師・戒師停止すべきよし、聖人の御前にして誓言発願をはりき。(口伝鈔 P.873)
- 〔現代語〕:説法も巧みで、いにしえの名説法者に劣らないほどでしたが、「私は生涯、聞法者として終始し、師として弟子に法門の伝授を行ったり、人に戒律を授ける戒師の地位についたりはいたしません」と法然聖人の前でお誓になりました。
と、御開山は、法然聖人の前で人の師とはならない、と誓われたと記しておられるのも、その意であろう。
御開山は「現生十種の益」(信巻 P.251)で「常行大悲の益」をあげておられる。この常行大悲の益は、『安楽集』で『大悲経』を引いて、
- いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく。(信巻引文 P.260)
と、自らが、なんまんだぶを称え実践することが「自信教人信……大悲弘普化 真成報仏恩」という言葉の意味であるとされたのであろう。御開山は大行の「浄土真実の行」である〔なんまんだぶ〕を、
- しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。(行巻 P.141)
とされておられた。
浄土真宗には「後ろ姿で布教する」という言葉がある。後ろ姿とは、自らが如来に信順している信心の実践(なんまんだぶ)が大悲弘くあまねく化する相であった、これは自らがなんまんだぶを称えるという常行大悲の実践が、やがて『論註』の、
- 同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。(証巻で引文 P.310)
という御同朋・御同行の世界を開いていくのであった。
→教
外部リンク
法話「義なきを義とす」