「僧にあらず俗にあらず」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
19行目: | 19行目: | ||
御開山は、日本人に「何をよろこび、何をかなしむべきか」を教えて下さった方であるといわれる。ほとんど自らの感情を語ることのなかった御開山には、三哉(さんかな・さんさい)という文がある。 | 御開山は、日本人に「何をよろこび、何をかなしむべきか」を教えて下さった方であるといわれる。ほとんど自らの感情を語ることのなかった御開山には、三哉(さんかな・さんさい)という文がある。 | ||
{{Inyou| | {{Inyou| | ||
− | :{{DotUL|誠なるかな}}、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。([[総序#P--132|総序 P.132]]) 《誠哉》 | + | :'''誠哉''' 摂取不捨真言 超世希有正法 聞思莫遅慮。 |
+ | ::{{DotUL|誠なるかな}}、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。([[総序#P--132|総序 P.132]]) 《誠哉》 | ||
}} | }} | ||
{{Inyou| | {{Inyou| | ||
− | :ここに愚禿釈の親鸞、{{DotUL|慶ばしいかな}}、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。([[総序#造書の意を述べる|総序 P.132]]) 《慶哉》 | + | :爰愚禿釈親鸞 '''慶哉''' 西蕃・月支聖典 東夏・日域師釈 難遇 今得遇 難聞已得聞。 |
+ | ::ここに愚禿釈の親鸞、{{DotUL|慶ばしいかな}}、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。([[総序#造書の意を述べる|総序 P.132]]) 《慶哉》 | ||
}} | }} | ||
御開山は、自らには真実はない、ということを真実とされた方であった。それ故に真実の教えに出遇われたことを「誠哉」「慶哉」といわれたのであろう。 | 御開山は、自らには真実はない、ということを真実とされた方であった。それ故に真実の教えに出遇われたことを「誠哉」「慶哉」といわれたのであろう。 | ||
{{Inyou| | {{Inyou| | ||
− | :まことに知んぬ、{{DotUL|悲しきかな愚禿鸞}}、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。([[信巻末#P--266|信巻 P.266]]) 《悲哉》 | + | :誠知。'''悲哉'''愚禿鸞 沈没於愛欲広海 迷惑於名利太山 不喜入定聚之数。 |
+ | ::まことに知んぬ、{{DotUL|悲しきかな愚禿鸞}}、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。([[信巻末#P--266|信巻 P.266]]) 《悲哉》 | ||
}} | }} | ||
それはまた「悲哉」という真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。 | それはまた「悲哉」という真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。 |
2017年12月25日 (月) 04:35時点における版
そうにあらず-ぞくにあらず
「非僧非俗」。 『教行信証』後序に出る語。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
処分に対する宗祖の反応
- 非僧 僧籍剥奪。 僧に非ず→肯定。
- 非俗 還俗。 俗に非ず→否定。 還俗名 藤井善信(歎異抄)の姓を否定→愚禿と自称
- 1211年。親鸞聖人三十九歳の時に赦免。当時は赦免されれば僧籍は復活されたといわれる。
御開山は、日本人に「何をよろこび、何をかなしむべきか」を教えて下さった方であるといわれる。ほとんど自らの感情を語ることのなかった御開山には、三哉(さんかな・さんさい)という文がある。
- 誠哉 摂取不捨真言 超世希有正法 聞思莫遅慮。
- 誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序 P.132) 《誠哉》
- 爰愚禿釈親鸞 慶哉 西蕃・月支聖典 東夏・日域師釈 難遇 今得遇 難聞已得聞。
- ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。(総序 P.132) 《慶哉》
御開山は、自らには真実はない、ということを真実とされた方であった。それ故に真実の教えに出遇われたことを「誠哉」「慶哉」といわれたのであろう。
- 誠知。悲哉愚禿鸞 沈没於愛欲広海 迷惑於名利太山 不喜入定聚之数。
- まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(信巻 P.266) 《悲哉》
それはまた「悲哉」という真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。