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「因分可説/果分不可説」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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仏のさとりの全内容である[[真如]]の世界(<kana>[[性海]](しょうかい)</kana>)のありさまは、仏果をさとった身分でなければ知ることができず、衆生には説きあらわすことのできないものであるが(性海果分、<kana>果分不可説(かぶん-ふかせつ)</kana>)、仏になる因の身分にある衆生のために、機縁に応じて説き起こされた教えは、衆生が知ることのできるものである(縁起因分、<kana>因分可説(いんぶん-かせつ)</kana>)とする。(華厳経深玄記一〇、華厳五教章巻一)(仏教学辞典)
 
仏のさとりの全内容である[[真如]]の世界(<kana>[[性海]](しょうかい)</kana>)のありさまは、仏果をさとった身分でなければ知ることができず、衆生には説きあらわすことのできないものであるが(性海果分、<kana>果分不可説(かぶん-ふかせつ)</kana>)、仏になる因の身分にある衆生のために、機縁に応じて説き起こされた教えは、衆生が知ることのできるものである(縁起因分、<kana>因分可説(いんぶん-かせつ)</kana>)とする。(華厳経深玄記一〇、華厳五教章巻一)(仏教学辞典)
 
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一般に仏教においては、現象世界を因分、さとりの境地である絶対の世界を果分に分ける。現象世界は五官(五感を生ずる五つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚)によって把握したり、文字とか音声によって表現することができるから「<kana>因分可説(いんぶん-かせつ)</kana>」といい、絶対のさとりの世界はそれを日常的な方法では表現することができないから、「<kana>果分不可説(かぶん-ふかせつ)</kana>」という。
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一般に仏教においては、現象世界を因分、さとりの境地である絶対の世界を果分に分ける。[[真俗二諦]]について「諸仏は、是の二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう」とあり、現象世界は五官(五感を生ずる五つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚)によって把握したり、文字とか音声によって表現することができるから「<kana>因分可説(いんぶん-かせつ)</kana>」といい、絶対のさとりの世界はそれを日常的な方法では表現することができないから、「<kana>果分不可説(かぶん-ふかせつ)</kana>」という。
 
仏教ではさとりへの因として[[譬喩]]がよく用いられるのだが、仏のさとりを示す同譬はないといわれるのもこの意である。<br />
 
仏教ではさとりへの因として[[譬喩]]がよく用いられるのだが、仏のさとりを示す同譬はないといわれるのもこの意である。<br />
 
なお経・論・釈の引文などで末尾が「と。」となっているのは「と、言われている」や「と、領解した」の意で如是我聞(かくのごとく、われ聞きたてまつりき)のことである。また布教使が説教のときの御讃題(法話の冒頭で、法話の主題にあたる部分を聖典の文から選び讃嘆すること)のあとに「……と~っ」と付けて発声するのもその意味である。
 
なお経・論・釈の引文などで末尾が「と。」となっているのは「と、言われている」や「と、領解した」の意で如是我聞(かくのごとく、われ聞きたてまつりき)のことである。また布教使が説教のときの御讃題(法話の冒頭で、法話の主題にあたる部分を聖典の文から選び讃嘆すること)のあとに「……と~っ」と付けて発声するのもその意味である。
  
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2018年6月14日 (木) 03:07時点における版

いんぶん-かせつ/かぶん-ふかせつ

 分は分斉(けじめ)の意味で、因の範囲を因分(いんぶん)、果の範囲を果分(かぶん)という。世親の十地経論巻二には、因分は果分の一部分をあらわすものとする。 仏のさとりの全内容である真如の世界(性海(しょうかい))のありさまは、仏果をさとった身分でなければ知ることができず、衆生には説きあらわすことのできないものであるが(性海果分、果分不可説(かぶん-ふかせつ))、仏になる因の身分にある衆生のために、機縁に応じて説き起こされた教えは、衆生が知ることのできるものである(縁起因分、因分可説(いんぶん-かせつ))とする。(華厳経深玄記一〇、華厳五教章巻一)(仏教学辞典)

一般に仏教においては、現象世界を因分、さとりの境地である絶対の世界を果分に分ける。真俗二諦について「諸仏は、是の二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう」とあり、現象世界は五官(五感を生ずる五つの感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚)によって把握したり、文字とか音声によって表現することができるから「因分可説(いんぶん-かせつ)」といい、絶対のさとりの世界はそれを日常的な方法では表現することができないから、「果分不可説(かぶん-ふかせつ)」という。 仏教ではさとりへの因として譬喩がよく用いられるのだが、仏のさとりを示す同譬はないといわれるのもこの意である。
なお経・論・釈の引文などで末尾が「と。」となっているのは「と、言われている」や「と、領解した」の意で如是我聞(かくのごとく、われ聞きたてまつりき)のことである。また布教使が説教のときの御讃題(法話の冒頭で、法話の主題にあたる部分を聖典の文から選び讃嘆すること)のあとに「……と~っ」と付けて発声するのもその意味である。

依詮談旨
真俗二諦
無分別智
能説の…知るを

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