「性起」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:性はこれ本の義なり。いふこころは、これ浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。 ([[真巻#P--358|真巻 P.358]]) | :性はこれ本の義なり。いふこころは、これ浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。 ([[真巻#P--358|真巻 P.358]]) | ||
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本願力回向の乃至十念の〈なんまんだぶ〉を称える法こそが、「惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに」[[顕浄土真仏土文類#no37|(*)]]と浄土において仏性を開覚する浄土真宗の体系であった。 | 本願力回向の乃至十念の〈なんまんだぶ〉を称える法こそが、「惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに」[[顕浄土真仏土文類#no37|(*)]]と浄土において仏性を開覚する浄土真宗の体系であった。 | ||
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2019年1月24日 (木) 14:46時点における版
しょうき
中国、華厳宗の学説の一つ。華厳の教学では、天地万物すべて「
御開山は、浄土の本質を『論註』の性功徳釈の文を引かれて「『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。」とされ、性起という語を使われておられる。『華厳経』宝王如來性起品には、
- 仏子、如来の智慧、無相の智慧、無礙の智慧は、具足して衆生の身中に在るも、ただ愚癡の衆生は顛倒の想に覆われて、知らず、見ず、信心を生ぜざるのみ。そのときに如来は、障礙なき清淨の天眼をもって、一切衆生を観察したまい、観じおわりてかくのごときの言をなしたまわく。
- 「奇なるかな、奇なるかな、云何んぞ如來も具足せる智慧は、身中に在りてしかも知見せざる。 我まさに彼の衆生に教えて聖道を覺悟せし悉く永(とこしな)く妄想顛倒の垢縛を離れしめ、つぶさに如来の智慧その身内に在りて、仏と異なるなきを見らしめん」と。(*)
として、如来蔵である一切衆生 悉有仏性について説かれている。
これを、阿弥陀如来の本願の上で論ずれば、
- またいふこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて積習して成ぜるところなり。(真巻 P.358)
の「正道大慈悲 出世善根生(正道の大慈悲、出世の善根より生ず。)」の仏願の生起である。御開山は「真巻」で『論註』の性功徳釈を引文され浄土の性は、
- 性はこれ本の義なり。いふこころは、これ浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。 (真巻 P.358)
とされておられる。 本願力回向の乃至十念の〈なんまんだぶ〉を称える法こそが、「惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに」(*)と浄土において仏性を開覚する浄土真宗の体系であった。