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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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れんにょさん
 
れんにょさん
  
本願寺八代目を、庶子であることの苦難の末に43歳で継職された蓮如上人は、当初「[[帰命尽十方無礙光如来]]」の十字名号を本尊として門徒に授与したことから[[無礙光宗]]と呼ばれた。この隆盛を危惧した比叡山では[[JDS:造悪無礙|造悪無礙]](悪を造ることさまたげ無し)を説く邪義であるとして、寛正六年(1465)延暦寺衆徒によって百五十数年存続した「[[大谷本願寺]]」破却された。<br>
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本願寺八代目を、庶子であることの困難の末に43歳で継職された蓮如上人は、当初「[[帰命尽十方無礙光如来]]」の十字名号を本尊として門徒に授与したことから[[無礙光宗]]と呼ばれた。この隆盛を危惧した[[比叡山]]では[[JDS:造悪無礙|造悪無礙]](悪を造ることさまたげ無し)を説く邪義であるとして、寛正六年(1465)延暦寺衆徒によって百五十数年存続した「[[大谷本願寺]]」破却された。<br>
爾来、河内・近江等に移ったのだが、文明三年(1471)越前吉崎に坊舎を建て、[[安芸の蓮崇]]のすすめによって[[御文章]]等による独創的な伝道を展開し、北陸を中心に東海・奥州に教線を拡められた。<br>
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その後、河内・近江などに移られたのだが、父[[存如]]の従兄弟である法相宗大乗院の[[JWP:経覚|経覚]]の斡旋によって、文明三年(1471)越前吉崎の地に坊舎を建てられた。この地で一門徒であった[[安芸の蓮崇]]の懇請によって[[御文章]]等による独創的な伝道を展開し、北陸を中心に東海・奥州に教線を拡められた。<br>
 
ともあれ越前の門徒は、身近にご教化にあったので、蓮如さんと親しみを込めて「蓮如さん」と呼称するのであった。
 
ともあれ越前の門徒は、身近にご教化にあったので、蓮如さんと親しみを込めて「蓮如さん」と呼称するのであった。
  
  
 
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2022年1月3日 (月) 02:08時点における最新版

れんにょさん

本願寺八代目を、庶子であることの困難の末に43歳で継職された蓮如上人は、当初「帰命尽十方無礙光如来」の十字名号を本尊として門徒に授与したことから無礙光宗と呼ばれた。この隆盛を危惧した比叡山では造悪無礙(悪を造ることさまたげ無し)を説く邪義であるとして、寛正六年(1465)延暦寺衆徒によって百五十数年存続した「大谷本願寺」破却された。
その後、河内・近江などに移られたのだが、父存如の従兄弟である法相宗大乗院の経覚の斡旋によって、文明三年(1471)越前吉崎の地に坊舎を建てられた。この地で一門徒であった安芸の蓮崇の懇請によって御文章等による独創的な伝道を展開し、北陸を中心に東海・奥州に教線を拡められた。
ともあれ越前の門徒は、身近にご教化にあったので、蓮如さんと親しみを込めて「蓮如さん」と呼称するのであった。