御文章
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ごぶんしょう
本書は、第八代宗主蓮如上人が門弟の要望に応えて、真宗教義の要を平易な消息の形式で著されたものである。宗祖親鸞聖人の御消息に示唆を得て作られたともいわれている。したがって、どんな人にも領解されるように心がくばられ、文章を飾ることもなく、俗語や俗諺までも駆使されている。
本聖典に収められている五帖八十通の『御文章』は『帖内御文章』ともいい、多数のなかよりとくに肝要なものを、第九代宗主実如上人のもとで抽出・編集されたものである。時代別にみると、吉崎時代四十通、河内出口時代七通、山科時代五通、大坂坊舎時代六通、年紀が記されていないもの二十二通となっていて、教団が飛躍的に拡大した吉崎時代のものがもっとも多く、上人が一般大衆を精力的に教化されたことがうかがえる。
全般の内容をみれば、当時の浄土異流や宗門内で盛んに行われていた善知識だのみ、十劫秘事、口称正因などの異安心や異義を批判しつつ、信心正因・称名報恩という真宗の正義を明らかにすることに心を砕かれている。とくに「なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり」という傾向に対して、他力の信心の重要性が説かれている。また本書の随所に、他力回向の信心を「たすけたまへと弥陀をたのむ」と表現されることは、上人の教学の特色である。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 御文章と御文(おふみ)の呼称について。
浄土真宗聖典原典版の解説・校異に、
- 『御文章』は、古来御文、消息、宝章といった種々の名称がある。しかし蓮如上人自身は「文(ふみ)」と読まれていたようである。それは文明五年(一四七三)九月二十七日、下間安芸蓮崇の集録した御文章の端書に「右斯文トモハ……」(*) と記したり、文明七年(一四七五)四月二十八日の幸子坊宛ての『御文章』中に「コノ文」(*) と記述しているからである。
- しかし本派では寂如上人が
貞享 元年(一六八四)開版された『御文章』の奥書に「此五帖一部之文章者 信証院蓮如 対愚昧衆生所令和述之消息……」[1]と記して以来、代々鏡如上人までこの奥書の様式が踏襲(法如上人と明如上人の一部の五帖本は奥書を欠く)されたので、この『御文章』という雅語が用いられ、現代にいたっている。(p.40)
とあるので、『御文章』という呼称は、御開山の開顕された浄土真宗(教団名ではなく法義名)が、世間に仏教であると認知された江戸期に入ってからであろう。──ある意味では、この頃から通仏教の儀礼儀式を取り入れて、門徒と共にあった毛坊主が知的高等遊民と化す[2]──。そもそも『御文章』は、消息(手紙)形式の文章であるので、谷派では、お文(ふみ)と呼称している。吉崎御坊のあった吉崎の地に残るシャシャムシャ[3]踊り(蓮如踊り)では「阿弥陀様にと おじゃ思われた 蓮如なこうど 文もろた」と謡われている。御文章は、阿弥陀様の生死(生と死を繰り返す輪廻)から救われてくれよの恋慕の意を、蓮如さんが手紙にして仲人して下さったのであった。法然聖人は「慕人とは阿弥陀仏なり、恋せらるる者とは我等なり」といわれていた。→『阿弥陀経』の一心不乱の事
- ↑ この五帖一部の文章は、信証院蓮如、愚昧の衆生に対し和(やわ)らげしめる所を述ぶるの消息…
- ↑ スッタニパータ「田を耕すバーラドブァージャ」の章では、労働することなく食を得ようとする釈尊に「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」という。それに対して釈尊は「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)きである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」といわれたとされる。また、本願寺第四代の能化であった日渓法琳師は、華厳の学僧であった鳳潭に、あなたの宗には食を得る偈があるかと問われて即座に「対食の偈」を誦したといわれる。はたして、どれだけの高等遊民である真宗の坊さんが、粒粒皆是檀信 滴滴悉是檀波の意を領解できるであろうか。どうでもいいけど。
- ↑ シャシャとは笹のことで、蓮如さんが、笹がむしゃむしゃ(乱れもつれているさま。もしゃもしゃ)に茂っていた吉崎の笹山を両手で掻き分けて登り、吉崎御坊の地とされたからシャシャムシャというのだと古老はいう。