「無我」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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梵語アナートマン(anātman)、ニルアートマン(nirātman)、ナイラートミヤ(nairātmya) などの意訳。 | 梵語アナートマン(anātman)、ニルアートマン(nirātman)、ナイラートミヤ(nairātmya) などの意訳。 | ||
− | :Ⅰ 我とは、伝統的に「常・一・主・宰」の四義によって定義され、常住であり (常)、唯一のものであり (一)、万物の主体であり (主)、支配者である(宰) | + | :Ⅰ 我とは、伝統的に「常・一・主・宰」の四義によって定義され、常住であり (常)、唯一のものであり (一)、万物の主体であり (主)、支配者である(宰) ような実体的な存在をいう。初期には、'''非我''' (我ではない) なるものを我とみなすことを否定した考え方であったが、のちにすべてのものには実体的な我が存在しないという意味として確立された。『大経』には「[[諸法の性]]は、一切、空無我なり」([[大経下#P--45|註 45]])と説かれている。なお、仏教思想の根本真理としての[[三法印]]の一に諸法無我を説く。 |
:Ⅱ 我執のないこと。我を離れていること。 (浄土真宗辞典) | :Ⅱ 我執のないこと。我を離れていること。 (浄土真宗辞典) | ||
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2022年6月1日 (水) 19:16時点における版
むが
梵語アナートマン(anātman)またはニラートマン(nirātman)、ナイラートミヤ(nairātmya)などの漢訳。非我とも漢訳する。
- Ⅰ.我とは、常住であり(常)、唯一のものであり(一)、万物の主体であり(主)、支配者である(宰)ような実体的な存在をいう。すべてのものにはこのような実体的な我が内在していると説く有我説を否定するのが無我説である。仏教の根本特徴である
三法印 の一に諸法無我を説く。 - Ⅱ.
我執 のないこと。我執を離れたこと。 - Ⅲ.自力のとらわれのないこと。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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むが 無我
梵語アナートマン(anātman)、ニルアートマン(nirātman)、ナイラートミヤ(nairātmya) などの意訳。
- →常楽我浄