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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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 [[法相宗]](ほっそうしゅう)本山。南都(奈良)七大寺の一で、南都教学の中心的存在として栄えた。元久二年(1205)、「興福寺僧綱大法師」等の言として[[法然]]上人の[[専修]](せんじゅ)[[念仏]]に対して過失九箇条(
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:①新宗を立てる失、
 
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:②新像を図する失、
 
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:⑧釈衆を損ずる失、
 
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:⑨国土を乱す失
 
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)を挙げて論難し、処罰を求めた。これを「興福寺奏状(そうじょう)」(解脱上人貞慶(げだつしょうにんじょうけい)が草したといわれている)といい、承元元年(1207)の専修念仏停止、法然上人や門弟の処罰の原因となった。
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)を挙げて論難し、処罰を求めた。これを「興福寺<kana>奏状(そうじょう)</kana>」(<kana>解脱上人貞慶(げだつしょうにんじょうけい)</kana>が草したといわれている)といい、承元元年(1207)の専修念仏停止、法然上人や門弟の処罰の原因となった。
  
 
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2005年10月26日 (水) 18:55時点における最新版

こうぶくじ

 法相宗(ほっそうしゅう)本山。南都(奈良)七大寺の一で、南都教学の中心的存在として栄えた。元久二年(1205)、「興福寺僧綱大法師」等の言として法然上人の専修(せんじゅ)念仏に対して過失九箇条(

①新宗を立てる失、
②新像を図する失、
③釈尊を軽んずる失、
④万善を妨げる失、
⑤霊神に背く失、
⑥浄土に暗き失、
⑦念仏を誤る失、
⑧釈衆を損ずる失、
⑨国土を乱す失

)を挙げて論難し、処罰を求めた。これを「興福寺奏状(そうじょう)」(解脱上人貞慶(げだつしょうにんじょうけい)が草したといわれている)といい、承元元年(1207)の専修念仏停止、法然上人や門弟の処罰の原因となった。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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