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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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 (766または767-822)<ruby><rb>伝教</rb><rp>(</rp><rt>でんぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>大師。日本天台宗の開祖で日本仏教の基盤を築いた。延暦四年(785)東大寺<ruby><rb>戒壇</rb><rp>(</rp><rt>かいだん</rt><rp>)</rp></ruby>で受戒。のち比叡山に入り<ruby><rb>一乗止観院</rb><rp>(</rp><rt>いちじょうしかんいん</rt><rp>)</rp></ruby>を創した。延暦二十三年(804)空海と共に入唐して<ruby><rb>円</rb><rp>(</rp><rt>えん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>密</rb><rp>(</rp><rt>みつ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>禅</rb><rp>(</rp><rt>ぜん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>戒</rb><rp>(</rp><rt>かい</rt><rp>)</rp></ruby>の四宗を相承し、帰朝後、<ruby><rb>年分度者</rb><rp>(</rp><rt>ねんぶんどしゃ</rt><rp>)</rp></ruby>として天台業二人を許可された。大乗戒壇の独立を企てたが生前には実現できなかった。著書『願文(がんもん)』『山家学生式(さんげがくしょうしき)』『法華秀句(ほっけしゅうく)』『顕戒論(けんかいろん)』『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』等がある。
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 (766または767-822)<kana>伝教(でんぎょう)</kana>大師。日本天台宗の開祖で日本仏教の基盤を築いた。延暦四年(785)東大寺<kana>戒壇(かいだん)</kana>で受戒。のち比叡山に入り<kana>一乗止観院(いちじょうしかんいん)</kana>を創した。延暦二十三年(804)空海と共に入唐して<kana>円(えん)</kana>・<kana>密(みつ)</kana>・<kana>禅(ぜん)</kana>・<kana>戒(かい)</kana>の四宗を相承し、帰朝後、<kana>年分度者(ねんぶんどしゃ)</kana>として天台業二人を許可された。大乗戒壇の独立を企てたが生前には実現できなかった。著書『<kana>願文(がんもん)</kana>』『<kana>山家学生式(さんげがくしょうしき)</kana>』『<kana>法華秀句(ほっけしゅうく)</kana>』『<kana>顕戒論(けんかいろん)</kana>』『<kana>守護国界章(しゅごこっかいしょう)</kana>』等がある。
  
 
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2017年11月27日 (月) 16:50時点における最新版

さいちょう

 (766または767-822)伝教(でんぎょう)大師。日本天台宗の開祖で日本仏教の基盤を築いた。延暦四年(785)東大寺戒壇(かいだん)で受戒。のち比叡山に入り一乗止観院(いちじょうしかんいん)を創した。延暦二十三年(804)空海と共に入唐して(えん)(みつ)(ぜん)(かい)の四宗を相承し、帰朝後、年分度者(ねんぶんどしゃ)として天台業二人を許可された。大乗戒壇の独立を企てたが生前には実現できなかった。著書『願文(がんもん)』『山家学生式(さんげがくしょうしき)』『法華秀句(ほっけしゅうく)』『顕戒論(けんかいろん)』『守護国界章(しゅごこっかいしょう)』等がある。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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