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 懺は梵語クシャマ(kşama <ruby><rb>懺摩</rb><rp>(</rp><rt>さんま</rt><rp>)</rp></ruby>)の音略で、忍の意。罪のゆるしを他人に請うこと。悔は追悔、<ruby><rb>悔過</rb><rp>(</rp><rt>けか</rt><rp>)</rp></ruby>の意。あやまちを悔い改めるために、ありのままを仏・菩薩・師長(師や先輩)・<ruby><rb>大衆</rb><rp>(</rp><rt>だいしゅ</rt><rp>)</rp></ruby>に告白して謝ること。すなわち、自らがなした罪過を悔いてゆるしを請うこと。浄土教では、阿弥陀仏の名号を称える念仏に懺悔の徳があるとされる。
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 懺は梵語クシャマ(kşama <kana>懺摩(さんま)</kana>)の音略で、忍の意。罪のゆるしを他人に請うこと。悔は追悔、<kana>悔過(けか)</kana>の意。あやまちを悔い改めるために、ありのままを仏・菩薩・師長(師や先輩)・<kana>大衆(だいしゅ)</kana>に告白して謝ること。すなわち、自らがなした罪過を悔いてゆるしを請うこと。浄土教では、阿弥陀仏の名号を称える念仏に懺悔の徳があるとされる。
  
 
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善導大師は『往生礼讃』で、
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:懺悔に三品あり。
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と、三種懴悔の方法を説く。また、三品の懺悔として、
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:懺悔に三品あり。
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:上・中・下なり。「上品の懺悔」とは、身の毛孔のなかより血流れ、眼のなかより血出づるものを上品の懺悔と名づく。 「中品の懺悔」とは、遍身に熱き汗毛孔より出で、眼のなかより血流るるものを中品の懺悔と名づく。 「下品の懺悔」とは、遍身徹りて熱く、眼のなかより涙出づるものを下品の懺悔と名づく。
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2018年1月5日 (金) 05:18時点における版

さんげ

 懺は梵語クシャマ(kşama 懺摩(さんま))の音略で、忍の意。罪のゆるしを他人に請うこと。悔は追悔、悔過(けか)の意。あやまちを悔い改めるために、ありのままを仏・菩薩・師長(師や先輩)・大衆(だいしゅ)に告白して謝ること。すなわち、自らがなした罪過を悔いてゆるしを請うこと。浄土教では、阿弥陀仏の名号を称える念仏に懺悔の徳があるとされる。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

善導大師は『往生礼讃』で、

懺悔に三品あり。
一には要、二には略、三には広なり。下につぶさに説くがごとし。意に随ひて用ゐるにみな得たり。

と、三種懴悔の方法を説く。また、三品の懺悔として、

懺悔に三品あり。
上・中・下なり。「上品の懺悔」とは、身の毛孔のなかより血流れ、眼のなかより血出づるものを上品の懺悔と名づく。 「中品の懺悔」とは、遍身に熱き汗毛孔より出で、眼のなかより血流るるものを中品の懺悔と名づく。 「下品の懺悔」とは、遍身徹りて熱く、眼のなかより涙出づるものを下品の懺悔と名づく。

を説くが、御開山は、専ら阿弥陀仏の名号を称えることによって自ずから懴悔がなされるとする。

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。(尊号 P.655)

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