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| + | '''3機・衆生''' |
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− | 機とは、法(教法)に対する言葉である。つまり、仏の教えをこうむるべき対象であり、法によって救済されるべきものをいう。一般に機と衆生は同じような意味で用いられているが、衆生(<ruby><rb>有情</rb><rp>(</rp><rt>うじょう</rt><rp>)</rp></ruby>)は、「生きとし生けるもの」という意味であり、その衆生が教法に対したときに機といわれるのである。
| + | [[機]]とは、法(教法)に対する言葉である。つまり、仏の教えをこうむるべき対象であり、法によって救済されるべきものをいう。 |
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− | 真宗の<ruby><rb>聖教</rb><rp>(</rp><rt>しょうぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>における機の用例には種々の意味がある。まず「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」(<ruby><rb>行巻</rb><rp>(</rp><rt>ぎょうかん</rt><rp>)</rp></ruby>)とは、教法を受けるべき衆生が千差万別であることをあらわしている。また「<ruby><rb>正機</rb><rp>(</rp><rt>しょうき</rt><rp>)</rp></ruby>たる<ruby><rb>悪凡夫</rb><rp>(</rp><rt>あくぼんぶ</rt><rp>)</rp></ruby>」(<ruby><rb>口伝鈔</rb><rp>(</rp><rt>くでんしょう</rt><rp>)</rp></ruby>・十九)とは、法(阿弥陀仏の救済)の<ruby><rb>正</rb><rp>(</rp><rt>まさ</rt><rp>)</rp></ruby>しきめあてが、悪人(罪悪<ruby><rb>深重</rb><rp>(</rp><rt>じんじゅう</rt><rp>)</rp></ruby>の凡夫)であることをあらわし、「<ruby><rb>正定聚</rb><rp>(</rp><rt>しょうじょうじゅ</rt><rp>)</rp></ruby>の機」(<ruby><rb>信巻</rb><rp>(</rp><rt>しんかん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>標挙</rb><rp>(</rp><rt>ひょうこ</rt><rp>)</rp></ruby>)とは、本願の法を正しく受けて、必ず仏になるべき身に定まっていることをあらわしている。
| + | 一般に機と衆生は同じような意味で用いられているが、[[衆生]](<kana>[[有情]](うじょう)</kana>)は、「生きとし生けるもの」という意味であり、その<u>衆生が教法に対したときに</u>機といわれるのである。 |
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− | このうち、阿弥陀仏の救済のめあてが悪人であるという場合の悪機とは、『<ruby><rb>歎異抄</rb><rp>(</rp><rt>たんにしょう</rt><rp>)</rp></ruby>』(二)に、「いづれの行もおよびがたき身」とあるように、仏になるべき能力も素質もそなわっていないもののことである。仏道を修行するについて、すぐれた能力・素質をそなえた人々が<ruby><rb>上根</rb><rp>(</rp><rt>じょうこん</rt><rp>)</rp></ruby>とよばれるのに対し、また<ruby><rb>下根</rb><rp>(</rp><rt>げこん</rt><rp>)</rp></ruby>といわれるのも同じ意味である。
| + | 真宗の<kana>聖教(しょうぎょう)</kana>における機の用例には種々の意味がある。まず「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」(行巻)とは、教法を受けるべき衆生が千差万別であることをあらわしている。また「<kana>正機(しょうき)</kana>たる<kana>悪凡夫(あくぼんぶ)</kana>」(<kana>口伝鈔(くでんしょう)</kana>・十九)とは、法(阿弥陀仏の救済)の<kana>正(まさ)</kana>しきめあてが、悪人(罪悪<kana>深重(じんじゅう)</kana>の凡夫)であることをあらわし、「<kana>正定聚(しょうじょうじゅ)</kana>の機」(信巻・<kana>標挙(ひょうこ)</kana>)とは、本願の法を正しく受けて、必ず仏になるべき身に定まっていることをあらわしている。 |
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− | このような悪人とは、阿弥陀仏の教法を信受してはじめて知らされることがらであって、これを機の<ruby><rb>深信</rb><rp>(</rp><rt>じんしん</rt><rp>)</rp></ruby>という。<ruby><rb>善導</rb><rp>(</rp><rt>ぜんどう</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>大師</rb><rp>(</rp><rt>だいし</rt><rp>)</rp></ruby>は機の深信を表す文に、「<ruby><rb>決定</rb><rp>(</rp><rt>けつじょう</rt><rp>)</rp></ruby>して深く、自身は現にこれ罪悪<ruby><rb>生死</rb><rp>(</rp><rt>しょうじ</rt><rp>)</rp></ruby>の凡夫、<ruby><rb>曠劫</rb><rp>(</rp><rt>こうごう</rt><rp>)</rp></ruby>よりこのかたつねに<ruby><rb>没</rb><rp>(</rp><rt>もっ</rt><rp>)</rp></ruby>し、つねに流転して、<ruby><rb>出離</rb><rp>(</rp><rt>しゅつり</rt><rp>)</rp></ruby>の縁あることなしと信ず」(信巻・本、引文)といわれている。
| + | このうち、阿弥陀仏の救済のめあてが悪人であるという場合の悪機とは、『<kana>歎異抄(たんにしょう)</kana>』(二)に、「いづれの行もおよびがたき身」とあるように、仏になるべき能力も素質もそなわっていないもののことである。仏道を修行するについて、すぐれた能力・素質をそなえた人々が<kana>上根(じょうこん)</kana>とよばれるのに対し、また<kana>下根(げこん)</kana>といわれるのも同じ意味である。 |
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| + | このような悪人とは、阿弥陀仏の教法を信受してはじめて知らされることがらであって、これを機の<kana>深信(じんしん)</kana>という。<kana>[[善導]](ぜんどう)</kana><kana>大師(だいし)</kana>は機の深信を表す文に、「<kana>決定(けつじょう)</kana>して深く、自身は現にこれ罪悪<kana>生死(しょうじ)</kana>の凡夫、<kana>曠劫(こうごう)</kana>よりこのかたつねに<kana>没(もっ)</kana>し、つねに流転して、<kana>出離(しゅつり)</kana>の縁あることなしと信ず」(信巻・本、引文)といわれている。 |
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| + | また「金剛の信心は絶対不二の機なり」(行巻)とあるのは、信心のことを機といったものである。これは法(阿弥陀仏の救済の力)が機たる衆生に至り届いたのが信であるから、信心を法に対して機とよぶのである。 |
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| + | 南無阿弥陀仏の六字に、行(必ずたすけるという阿弥陀仏の法)も信(南無とたのむ機)も成就されていることを、<kana>蓮如(れんにょ)</kana><kana>上人(しょうにん)</kana>が機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのも同じ意味である。 |
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− | また「金剛の信心は絶対不二の機なり」(行巻)とあるのは、信心のことを機といったものである。これは法(阿弥陀仏の救済の力)が機たる衆生に至り届いたのが信であるから、信心を法に対して機とよぶのである。南無阿弥陀仏の六字に、行(必ずたすけるという阿弥陀仏の法)も信(南無とたのむ機)も成就されていることを、<ruby><rb>蓮如</rb><rp>(</rp><rt>れんにょ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>上人</rb><rp>(</rp><rt>しょうにん</rt><rp>)</rp></ruby>が機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのも同じ意味である。
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2005年11月8日 (火) 22:31時点における版
3機・衆生
機とは、法(教法)に対する言葉である。つまり、仏の教えをこうむるべき対象であり、法によって救済されるべきものをいう。
一般に機と衆生は同じような意味で用いられているが、衆生(有情)は、「生きとし生けるもの」という意味であり、その衆生が教法に対したときに機といわれるのである。
真宗の聖教における機の用例には種々の意味がある。まず「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」(行巻)とは、教法を受けるべき衆生が千差万別であることをあらわしている。また「正機たる悪凡夫」(口伝鈔・十九)とは、法(阿弥陀仏の救済)の正しきめあてが、悪人(罪悪深重の凡夫)であることをあらわし、「正定聚の機」(信巻・標挙)とは、本願の法を正しく受けて、必ず仏になるべき身に定まっていることをあらわしている。
このうち、阿弥陀仏の救済のめあてが悪人であるという場合の悪機とは、『歎異抄』(二)に、「いづれの行もおよびがたき身」とあるように、仏になるべき能力も素質もそなわっていないもののことである。仏道を修行するについて、すぐれた能力・素質をそなえた人々が上根とよばれるのに対し、また下根といわれるのも同じ意味である。
このような悪人とは、阿弥陀仏の教法を信受してはじめて知らされることがらであって、これを機の深信という。善導大師は機の深信を表す文に、「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」(信巻・本、引文)といわれている。
また「金剛の信心は絶対不二の機なり」(行巻)とあるのは、信心のことを機といったものである。これは法(阿弥陀仏の救済の力)が機たる衆生に至り届いたのが信であるから、信心を法に対して機とよぶのである。
南無阿弥陀仏の六字に、行(必ずたすけるという阿弥陀仏の法)も信(南無とたのむ機)も成就されていることを、蓮如上人が機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのも同じ意味である。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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