「補註12」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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'''12 他力・本願力回向''' | '''12 他力・本願力回向''' | ||
− | 他力とは、阿弥陀仏の本願力回向のはたらきをいう。本願力とは、<kana>[[因位]](いんに)</kana>の本願のとおりに完成された<kana>力用(りきゆう)</kana>のことである。 | + | 他力とは、阿弥陀仏の本願力回向のはたらきをいう。本願力とは、<kana>[[因位]](いんに)</kana>の本願のとおりに完成された<kana>[[力用]](りきゆう)</kana>のことである。 |
その本願とは、<kana>十方(じっぽう)</kana>の[[衆生]]をして阿弥陀仏の救いを信ぜしめ、その[[名号]]を称えしめて、浄土に往生せしめようという願いであったから、本願力とは、衆生をして<kana>信行(しんぎょう)</kana>せしめ往生成仏せしめているはたらきをいうのである。このように、衆生に南無阿弥陀仏を与えて救うことを、[[親鸞聖人]]は本願力回向といわれたのである。 | その本願とは、<kana>十方(じっぽう)</kana>の[[衆生]]をして阿弥陀仏の救いを信ぜしめ、その[[名号]]を称えしめて、浄土に往生せしめようという願いであったから、本願力とは、衆生をして<kana>信行(しんぎょう)</kana>せしめ往生成仏せしめているはたらきをいうのである。このように、衆生に南無阿弥陀仏を与えて救うことを、[[親鸞聖人]]は本願力回向といわれたのである。 | ||
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いま本願力回向とは、本願に誓われたように、阿弥陀仏が自身の成就された仏徳のすべてを南無阿弥陀仏におさめて衆生に与えたもう利他回向のことである。『<kana>一多(いった)</kana><kana>証文(しょうもん)</kana>』に、「回向は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ<kana>御(み)</kana>のりなり」といわれたごとくである。 | いま本願力回向とは、本願に誓われたように、阿弥陀仏が自身の成就された仏徳のすべてを南無阿弥陀仏におさめて衆生に与えたもう利他回向のことである。『<kana>一多(いった)</kana><kana>証文(しょうもん)</kana>』に、「回向は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ<kana>御(み)</kana>のりなり」といわれたごとくである。 | ||
− | 親鸞聖人は「<kana>教巻(きょうかん)</kana>」の初めに、本願力回向の相に、<kana>[[往相]](おうそう)</kana>、<kana>還相(げんそう)</kana>の二種のあることを示された。往相とは、衆生が浄土に往生していく因果のすがたであって、教を与え行信の因を与え証果を与えていくことである。還相とは、証果を開いたものが大悲をおこして<kana>菩薩(ぼさつ)</kana>のすがたとなって、十方の衆生を救うためにこの世に還り来るすがたであるが、それもまた阿弥陀仏の第二十二願によって与えられたすがたである。 | + | 親鸞聖人は「<kana>教巻(きょうかん)</kana>」の初めに、本願力回向の相に、<kana>[[往相]](おうそう)</kana>、<kana>[[還相]](げんそう)</kana>の二種のあることを示された。往相とは、衆生が浄土に往生していく因果のすがたであって、教を与え行信の因を与え証果を与えていくことである。還相とは、証果を開いたものが大悲をおこして<kana>菩薩(ぼさつ)</kana>のすがたとなって、十方の衆生を救うためにこの世に還り来るすがたであるが、それもまた阿弥陀仏の第二十二願によって与えられたすがたである。 |
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2005年10月30日 (日) 08:24時点における版
12 他力・本願力回向
他力とは、阿弥陀仏の本願力回向のはたらきをいう。本願力とは、
回向とは「回転して趣向すること」であるが、これに自身の
いま本願力回向とは、本願に誓われたように、阿弥陀仏が自身の成就された仏徳のすべてを南無阿弥陀仏におさめて衆生に与えたもう利他回向のことである。『
親鸞聖人は「
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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