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「仏心と凡心」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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 凡夫の<ruby><rb>煩悩</rb><rp>(</rp><rt>ぼんのう</rt><rp>)</rp></ruby>の心の全体に仏心がいたりとどいて、煩悩具足の凡夫を仏に成るべき身とならしめることで、信心の<ruby><rb>利益</rb><rp>(</rp><rt>りやく</rt><rp>)</rp></ruby>をいう。これをまた仏凡一体という。([[御文章#P--1123|御文章 P.1123]])
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 凡夫の<ruby><rb>煩悩</rb><rp>(</rp><rt>ぼんのう</rt><rp>)</rp></ruby>の心の全体に仏心がいたりとどいて、煩悩具足の凡夫を仏に成るべき身とならしめることで、信心の<ruby><rb>利益</rb><rp>(</rp><rt>りやく</rt><rp>)</rp></ruby>をいう。これをまた仏凡一体という。 ([[御文二#P--1123|御文章 P.1123]])
  
 
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2008年1月25日 (金) 17:57時点における版

[ぶっしん][ぼんしん]とひとつになる

 凡夫の煩悩(ぼんのう)の心の全体に仏心がいたりとどいて、煩悩具足の凡夫を仏に成るべき身とならしめることで、信心の利益(りやく)をいう。これをまた仏凡一体という。 (御文章 P.1123)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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