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「第十八願」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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古来「十念往生の願」と呼ばれきたが、十念という数に限定されるおそれがあるため浄土真宗ではこの呼称を使用しない。たとえ経典といえども文字に拘泥しない[[不依文依義]]の姿勢は宗祖御開山聖人以来の宗風である。このため断章取意の[[異義]]が生まれやすい(近年の[[同朋運動]]や[[基幹運動]]の名を借りた弥勒的世直し思想)。
 
 
浄土教はこのような理想主義的運動論を支える理論になることはないのである。理想を求めながら、理想を断念した挫折の慙愧の中に、如来のそれでもお前を救うという一人称の「声」を聴くのが浄土門仏教である。[[摂取]]とはこのような状況をあらわし表現する言葉なのである。
 
 
「お前の立派な論理を捨てて、馬鹿になってなんまんだぶつしてみんか」の声が「至心信楽」である。なんまんだぶつはさとりを獲る「行」であるから称えると言う[[口業]]に限定ではない。身口意全てをあげての「行」である。摩訶止観でいわれる「大行」を越える「大行」がなんまんだぶつである。
 
 
しかし、ここで「大行」に相応しようと思い、[[身口意]]の三業を私が<u>なさければならない</u>と思い立った瞬間に浄土は「十万億」のかなたであることを実感するであろう。
 
 
なんまんだぶつを称えることは、浄土が私に対して[[顕現]]していることであり、
 
 
酔っ払ったので以後中断
 

2009年10月14日 (水) 14:12時点における版

 至心信楽(ししんしんぎょう)の願。(大経 P.18)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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