「善知識」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:「教授の善知識」この道を往け、この法を修せよと教え勧めてくれる者のこと。 | :「教授の善知識」この道を往け、この法を修せよと教え勧めてくれる者のこと。 | ||
− | + | なお親鸞聖人は、「化身土巻」で、第一真実の善知識として、菩薩・諸仏を挙げられる。→[[顕浄土方便化身土文類_%28本%29#no60|勧信経文証]]<br /> | |
+ | 大涅槃に近づく因縁は真の善知識に遇うことであると「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり」とされる。真の善知識である所以は、一つには[[畢竟軟語]]、二つには[[畢竟呵責]]、三つには[[軟語呵責]]なり、といわれ、衆生の機に応じて巧みな手立てをもって救済していくのが真の善知識であるとされる。ここでいう善知識の菩薩とは、初地以上の菩薩であり真理の一分を明らかに体得している菩薩である。究極的には、真理の全分を悟っているのは諸仏であるから、第十七願において阿弥陀仏の名号の徳を讃嘆する諸仏が第一真実の善知識であり、その諸仏の讃嘆を通して「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」なのである。 | ||
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+ | つまり、なんまんだぶと称える往生成仏の法を、生と死を超える業因であると受け入れるのが浄土真宗における信である。しかるに我至成仏道 名声超十方と届いている名号法を聞くことなく、法を説く人格に帰依しょうとするのが、知識帰命の異計である。善知識の姿の影を踏み、善知識の衣(ころも)が手に執るほどに近づくことが法を信知することだと錯覚している人に、↓の文章をお奨め。 | ||
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2012年6月13日 (水) 14:15時点における版
ぜんぢしき
よきとも。
また仏道に入らせる縁を結ばせる者や、共に仏道を励む人をいう。浄土真宗では、とくに念仏の教えを勧め導く人をいう。また、本願寺歴代の宗主を指す場合もある。(真要鈔 P.960)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 原義は、よきとも=良い友人=自分をよく知ってくれる人の意。
- 正しい道理を教える者を善知識(
善友 、親友 、勝友 、善親友 )、誤った道に導く者を悪知識(悪友 、悪師)といい、単に知識というときは善知識の意とする。例せば、華厳経入法界品には善哉童子の求道の過程に五五の善知識(一般に五三善知識という)に遇うことを説くように、どんな姿の者でも仏道に導くものは善知識であり、四分律巻四一には善親友は与え難いものを与えるなど七つ条件を具えている(善友七事)とし、智顗の摩訶止観巻四下には、外護(そとから見つめてまもる)、同行(行動を共にする)、教授(教え導く)の三善知識を説き、円暉の倶舎論頌疏巻二九には法を与えるものを上の親友、財と法を与えるものを中の親友、財を与えるものを下の親友とする(三友)。 - 真宗では念仏の教えをすすめるものを善知識というが、その人をただちに如来になぞらえて善知識は如来であるから善知識のみをたのめ、と主張する異計(異安心)は、「善知識だのみ」、「知識帰命」といって排撃する。また法主を、正しく法灯を継承した人として善知識ということもある。法蔵館『仏教学辞典』より。
親鸞聖人の積学は天台学であったから、以下、天台における善知識の三種の考察をするのに資する『摩訶止観』における三種の善知識の出拠資料へリンクしておく。
知識に三種あり、一には外護。二には同行。三には教授。『摩訶止観』
- 「外護の善知識」外護者。在俗にあって三宝(仏・法・僧)を護る者で、いわゆる門信徒。
- 「同行の善知識」同じ教えを聞いて同じ行業の道を歩んでいる者。真宗では、御同行・御同朋のこと。
- 「教授の善知識」この道を往け、この法を修せよと教え勧めてくれる者のこと。
なお親鸞聖人は、「化身土巻」で、第一真実の善知識として、菩薩・諸仏を挙げられる。→勧信経文証
大涅槃に近づく因縁は真の善知識に遇うことであると「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり」とされる。真の善知識である所以は、一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり、といわれ、衆生の機に応じて巧みな手立てをもって救済していくのが真の善知識であるとされる。ここでいう善知識の菩薩とは、初地以上の菩薩であり真理の一分を明らかに体得している菩薩である。究極的には、真理の全分を悟っているのは諸仏であるから、第十七願において阿弥陀仏の名号の徳を讃嘆する諸仏が第一真実の善知識であり、その諸仏の讃嘆を通して「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」なのである。
つまり、なんまんだぶと称える往生成仏の法を、生と死を超える業因であると受け入れるのが浄土真宗における信である。しかるに我至成仏道 名声超十方と届いている名号法を聞くことなく、法を説く人格に帰依しょうとするのが、知識帰命の異計である。善知識の姿の影を踏み、善知識の衣(ころも)が手に執るほどに近づくことが法を信知することだと錯覚している人に、↓の文章をお奨め。