善知識
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ぜんぢしき
よきとも。巧みなる
また仏道に入らせる縁を結ばせる者や、共に仏道を励む人をいう。浄土真宗では、とくに念仏の教えを勧め導く人をいう。また、本願寺歴代の宗主を指す場合もある。(真要鈔 P.960)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『領解文』の「
「これもひとえに 宗祖聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の尊いお導きによるものです」(トーク:領解文)
と、宗祖聖人と宗主(門主)を「と」の語で同格で結ぶならば「善知識だのみ」の異安心に陥る。『領解文』では、この知識帰命に陥ることを危惧して、
- この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
と、御開山聖人御出世の御恩と、次第相承の善知識の意味を分けていた。
善知識
正しい道理を教える者を善知識(
真宗では念仏の教えをすすめるものを善知識というが、その人をただちに如来になぞらえて善知識は如来であるから善知識のみをたのめ、と主張する異計(異安心)は、「善知識だのみ」、「知識帰命」といって排撃する。また法主を、正しく法灯を継承した人として善知識ということもある。『仏教学辞典』(法蔵館)より引用。
親鸞聖人の20年の習学は天台学であったから、以下、天台における善知識の三種の考察をするのに資する『摩訶止観』における三種の善知識の出拠資料へリンクし、この三種の善知識についての浄土真宗における理解を示しておく。
- 知識に三種あり、一には外護。二には同行。三には教授。『摩訶止観』
- 「外護の善知識」外護者。在俗にあって三宝(仏・法・僧)を護持する者で、真宗では法を説く僧侶を外護するいわゆる門信徒。
- 「同行の善知識」同じ教えを聞いて同じ行業の道を歩んでいる者。真宗では、本願に選択された「同一念仏 無別同故」の御同行・御同朋のこと。
- 「教授の善知識」往生極楽の道を往け、この法(なんまんだぶ)を修せよと教え勧めてくれる者のこと。
なお親鸞聖人は、「化身土巻」で、第一真実の善知識として、菩薩・諸仏を挙げられる。→勧信経文証
大涅槃に近づく因縁は真の善知識に遇うことであると「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり」(化巻 P.409) とされる。真の善知識である所以は、一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり、といわれ、衆生の機に応じて巧みな手立てをもって救済していくのが真の善知識であるとされる。ここでいう善知識の菩薩とは、初地以上の菩薩であり真理の一分を明らかに体得している菩薩である。究極的には、真理の全分を悟っているのは諸仏であるから、第十七願(大経 P.18)において阿弥陀仏の名号の徳を讃嘆する諸仏が第一真実の善知識であり、その諸仏の咨嗟讃嘆を通して、
- 十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。 (大経 P.41)
と、阿弥陀仏の名号讃嘆と阿弥陀仏の信心を歓喜せしめるのが「第一真実の善知識」なのである。
つまり、なんまんだぶと称える往生成仏の法を、生と死を超える業因であると受け入れるのが浄土真宗における信である。しかるに我至成仏道 名声超十方と届いている名号法を聞くことなく、法を説く人格に帰依しようとするのが、知識帰命の異計である。善知識の姿の影を踏み、善知識の衣(ころも)が手に執(と)るほどに近づくことが法を信知することだと錯覚しているのが善知識だのみの異安心である。
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「善知識」の項目