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「十声・一声等」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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じっしょういっしょうとう
 
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 智昇(ちしょう)撰『集諸経(しゅうしょきょう)礼懺儀(らいさんぎ)』 所収の『礼讃(らいさん)』 では、「十声等」 (高麗(こうらい)版)、「十声聞等」 (宋版) などとなっている。 親鸞聖人は 「信文類」 において 「十声聞等」 とある『集諸経礼懺儀』 所収本をとくに引用されている。 ([[往生礼讃 (七祖)#P--654|往生礼讃 P.654]])
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 智昇(ちしょう)撰『<kana>集諸経(しゅうしょきょう)</kana><kana>礼懺儀(らいさんぎ)</kana>所収の『<kana>礼讃(らいさん)</kana>』 では、「十声等」 (<kana>高麗(こうらい)</kana>版)、「十声聞等」 (宋版) などとなっている。 親鸞聖人は 「信文類」 において 「十声聞等」 とある『集諸経礼懺儀』 所収本をとくに引用されている。 ([[往生礼讃 (七祖)#P--654|往生礼讃 P.654]])
  
 
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諸仏称名、衆生聞名という言葉があるが、御開山は称名に「聞」の意(本願招喚の勅命)を見ておられたのであろう。『一念多念証文』p.694で、『礼讃』の「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」(いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること」を釈し、「名号を称すること、十声・一声きくひと」とされた所以である。<br>
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なんまんだぶは、衆生が称えて功徳を積むような行ではなく、本願に選択された名号を称えて聞く行なのである。誰に聞かせるのでもなく、自らが称え自らが聞き、あの阿弥陀如来の覚りの世界から届くのが名号であった。我が名を称えよというご法義は、私の前に顕現している覚りのフロントであったのである。

2013年2月12日 (火) 23:44時点における版

じっしょういっしょうとう

 智昇(ちしょう)撰『集諸経(しゅうしょきょう)礼懺儀(らいさんぎ)』 所収の『礼讃(らいさん)』 では、「十声等」 (高麗(こうらい)版)、「十声聞等」 (宋版) などとなっている。 親鸞聖人は 「信文類」 において 「十声聞等」 とある『集諸経礼懺儀』 所収本をとくに引用されている。 (往生礼讃 P.654)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

諸仏称名、衆生聞名という言葉があるが、御開山は称名に「聞」の意(本願招喚の勅命)を見ておられたのであろう。『一念多念証文』p.694で、『礼讃』の「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」(いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること」を釈し、「名号を称すること、十声・一声きくひと」とされた所以である。
なんまんだぶは、衆生が称えて功徳を積むような行ではなく、本願に選択された名号を称えて聞く行なのである。誰に聞かせるのでもなく、自らが称え自らが聞き、あの阿弥陀如来の覚りの世界から届くのが名号であった。我が名を称えよというご法義は、私の前に顕現している覚りのフロントであったのである。