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十声・一声等

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

御開山は『往生礼讃』の、

 いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 P.654)

の文をあえて『往生礼讃』の注釈である智昇の『集諸経礼懺儀』を引文し、

 いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(行巻 P.188, 信巻 P.228)

と、下十声・一声等を下十声・一声聞等とされ「行巻」「信巻」で引文されておられた。
諸仏称名、衆生聞名という言葉があるが、御開山は称名に「」の意(本願招喚の勅命)を見ておられたのであろう。『一念多念証文』p.694で、『礼讃』の

「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」(いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること」

を釈し、「名号を称すること、十声・一声きくひと」とされた所以である。
なんまんだぶは、衆生が称えて功徳を積むようなではなく、本願に選択された名号を称えて聞く大行なのである。誰に聞かせるのでもなく、自らが称え自らが聞き、あの阿弥陀如来の覚りの世界から届くのが名号であった。我が名を称え聞けよというご法義は、声の仏が私の前に顕現している覚りのフロントであったのである。
御開山が示して下さった浄土真宗は「聞のご法義」であった。