「八万四千の法門」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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二萬一千等分人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說是名樂說無礙智。 | 二萬一千等分人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說是名樂說無礙智。 | ||
:二万一千の'''等分人の根'''には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたえまり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。これを楽説無礙智<ref>楽説無礙智。◇衆生のために仏の法を説く時、恐れることなく自由自在に理解させることのできる智慧。</ref>と名づく。 | :二万一千の'''等分人の根'''には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたえまり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。これを楽説無礙智<ref>楽説無礙智。◇衆生のために仏の法を説く時、恐れることなく自由自在に理解させることのできる智慧。</ref>と名づく。 | ||
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+ | 以下は御開山が八万四千をどのように理解されておられたかを、梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』から窺う。(註とリンクは私において付した。) | ||
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+ | 聖道門では生死を離れることの出来ない者のために[[要門]]を説いて浄土門へと誘引されたわけであるが、その要門さえも如実に修業することのできない愚悪の衆生のために阿弥陀仏は[[弘願の一乗|弘願一乗]]の法を説かれたというのが序題門<ref>善導大師『観経疏』の序題門。</ref>の心であった、親鸞聖人はそのような仏意を、序題門に説かれていた「門余八万四千(門八万四千に余れり)」という言葉の中に読み取り、聖道門を要門に誘引し、要門から弘願の宗義に帰結されていく釈尊一代の教法の[[権実]]の体系を示されるのであった。それは[[機]]の堪不堪から、教法の[[権実]]へと展開される釈であった。すなわち、 | ||
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+ | 門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。 | ||
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+ | といわれたのがそれで、これを「門余の釈」といい慣わしている。 | ||
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+ | 序題門では、法門が無量であることを「門八万四千に余れり」といわれたわけであるから、「余」とは有余(ありあまる)という意味であった。それを親鸞聖人は、八万四千の法門の外に別の法門があることを表す言葉であると解釈し、「余」を「外余」(外に余っている)の意味に転用されたわけである。そして聖道八万四千の[[権教]]の外に、阿弥陀仏の本願力回によって善悪、賢愚の隔てなく、一切の衆生が救われていく本願一乗の法門があることを表していると領解されたのであった。 | ||
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2013年9月27日 (金) 23:42時点における版
下記に引用した『大智度諭』二五(『大正蔵』二五・二四七頁)には仏の救済の対象となる機根には、各々二万一千の婬欲人根・瞋恚人根・愚痴人根・等分人根の四種があって、全部で八万四千になるからそれを対治する法も自ずから八万四千の治法根を説くとされる。いずれにせよ無数の煩悩に対して無数の法門が説かれたことを八万四千の法門というのであろう。 [大智度論]
復次二萬一千婬欲人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說
- また次ぎに、二万一千の婬欲人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。
二萬一千瞋恚人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說
- 二万一千の瞋恚人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。
二萬一千愚癡人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說
- 二万一千の愚癡人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。
二萬一千等分人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說是名樂說無礙智。
- 二万一千の等分人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたえまり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。これを楽説無礙智[1]と名づく。
以下は御開山が八万四千をどのように理解されておられたかを、梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』から窺う。(註とリンクは私において付した。)
聖道門では生死を離れることの出来ない者のために要門を説いて浄土門へと誘引されたわけであるが、その要門さえも如実に修業することのできない愚悪の衆生のために阿弥陀仏は弘願一乗の法を説かれたというのが序題門[2]の心であった、親鸞聖人はそのような仏意を、序題門に説かれていた「門余八万四千(門八万四千に余れり)」という言葉の中に読み取り、聖道門を要門に誘引し、要門から弘願の宗義に帰結されていく釈尊一代の教法の権実の体系を示されるのであった。それは機の堪不堪から、教法の権実へと展開される釈であった。すなわち、
門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。
といわれたのがそれで、これを「門余の釈」といい慣わしている。
序題門では、法門が無量であることを「門八万四千に余れり」といわれたわけであるから、「余」とは有余(ありあまる)という意味であった。それを親鸞聖人は、八万四千の法門の外に別の法門があることを表す言葉であると解釈し、「余」を「外余」(外に余っている)の意味に転用されたわけである。そして聖道八万四千の権教の外に、阿弥陀仏の本願力回によって善悪、賢愚の隔てなく、一切の衆生が救われていく本願一乗の法門があることを表していると領解されたのであった。