操作

「教」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

11行目: 11行目:
 
教は暁喩の義
 
教は暁喩の義
  
『法華玄義』聖人、下にかむらし言なり。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1716_,33,0683b09:1716_,33,0683b10.html]
+
『法華玄義』聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T1716_,33,0683b09:1716_,33,0683b10.html]
  
 
能詮の[[言教]](言語によって表現された教え)、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)
 
能詮の[[言教]](言語によって表現された教え)、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)

2014年1月8日 (水) 22:55時点における版

きょう

 →補註8 (浄文 P.477)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

教とは、正しい道理を説いて人々を諭し、導くことです。 仏教では、真実をさとった聖者が未ださとらない迷えるものを導く言葉を「教」というといわれています 。

教は暁喩の義

『法華玄義』聖人、下にかむらしむ言(ことば)なり。[1]

能詮の言教(言語によって表現された教え)、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)