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「一向専念無量寿仏」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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2014年8月21日 (木) 15:56時点における版

一向専念無量寿仏

『無量寿経』下巻の三輩段に、

 仏、阿難に告げたまはく、「十方世界の諸天・人民、それ心を至して、かの国に生れんと願ずることあらん。おほよそ三輩あり。」

と、浄土往生を願う者を三種に分けて説く、以下の文が「一向専念無量寿仏」の出拠。

其上輩者、 捨家、棄欲、而作沙門、発菩提心、一向専念無量寿仏、修諸功徳、願生彼国。
其中輩者、十方世界諸天・人民、其有至心、願生彼国。雖不能行作沙門 大修功徳、当発無上菩提之心、一向専念無量寿仏
其下輩者、十方世界諸天・人民、其有至心、欲生彼国。仮使不能作諸功徳、当発無上菩提之心、一向専意、乃至十念、念無量寿仏、願生其国。

「一向専念無量寿仏」とは、「一向にもつぱら無量寿仏を念じ」ることであるが、この念じるとは、「一向専称弥陀仏名(一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむる)」ことであるとされたのは善導大師であった。名を称するのであるから称名の意である。
さて、善導大師が、この『無量寿経』の「一向専念無量寿仏」を称名であるとされた根拠は、『観経』の流通分の文からである。『観経』では定善と散善を説くのだが、その『観経』の教旨を未来に流通される段で、

仏告阿難 汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名
(仏阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉)

とある文による。この文を善導大師は、

上来雖説定散両門之益 望仏本願意在衆生 一向専称弥陀仏名
(上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

と、釈尊の説法を、阿弥陀如来の本願の意に望めて、「一向専称弥陀仏名(一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり)」と、見られたのである。 このように『観経』から『無量寿経』の教説を釈し、『観念法門』p.630で、

又言摂生増上縁者 即如無量寿経四十八願中説。仏言若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚。
{中略}
又此経下巻初云 仏説 一切衆生根性不同 有上中下。随其根性 仏皆勧 専念無量寿仏名
 また摂生増上縁といふは、すなはち『無量寿経』(上・意)の四十八願のなかに説きたまふがごとし。「仏のたまはく、〈もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」(第十八願)と。
{中略}
 またこの『経』(同)の下巻(意)の初めにのたまはく、「仏説きたまはく、 〈一切衆生の根性不同にして上・中・下あり。その根性に随ひて、仏(釈尊)、みな勧めてもつぱら無量寿仏の名を念ぜしめたまふ

と、第十八願の乃至十念の十念と『無量寿経』下巻の上・中・下の三輩の「一向専念無量寿仏」の《念》は、称名であるとされたのである。

なお、法然聖人は『選択集』三輩章で、この『観念法門』の文を引いて無量寿経の三輩について考察されておられる。

 わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。

: 答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。

 その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。

と、問答を設けて念仏と諸行について、廃立、助正、傍正の三つの観点から解釈されておられる。 当然、法然聖人にとっては、「本願章」念声是一、

 答へていはく、念・声は是一なり。なにをもつてか知ることを得る。『観経』の下品下生にのたまはく、「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く」と。
 いまこの文によるに、声はこれ念なり、念はすなはちこれ声なり。その意明らけし。

と、念を声と見られての、念仏(称名)と諸行の対判であることは勿論である。

ただし、無量寿経を真実の教とし『観経』に真仮の隠顕を見られる御開山の場合は、三輩段は第十九願の意と見られたので解釈が異なりややこしい。

以下、まとめ中。